[#改ページ]    彩雲国物語 3 花は紫宮に咲く [#地から2字上げ]雪乃紗衣 [#地から2字上げ]カバー・本文イラスト 由羅カイリ ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)綺麗《きれい》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)血気|盛《さか》ん [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)[#地から2字上げ] ------------------------------------------------------- [#改ページ] もくじ  序章  第一章 その掌にあるもの  第二章 初日  第三章 春の新人研修実施中  第四章 休息の一日  第五章 華麗なる終焉の序曲  第六章 その男きたりて  第七章 新人事  終章  あとがき  奥付 [#改ページ]    序章  月の綺麗《きれい》な晩だった。  冬も終わるころであったが、夜風はまだ凍《こお》るような冷たさだった。禁苑《きんえん》をそぞろ歩いていた宋太傅《そうたいふ》の吐《は》く息も、白く染まる。  かつて国一番の剣士《けんし》とうたわれた猛将《もうしょう》・宋太傅は、今でもそこらの若者よりよほど剛胆《ごうたん》かつ血気|盛《さか》んで勇ましい。朝廷《ちょうてい》百官を束ねる三師の一人であり王に次ぐ位階の持ち主なのに、夜更《よふ》けに供も連れずにほっつき歩くことからもそれはわかる。 「早いものだ。お前が逝ってから、もうすぐ一年か」  宋太傅は足を止めた。見上げる先には、一つの楼閣《ろうかく》があった。  それは城にある他の宮や楼《ろう》と比べて、さほど立派《りっぱ》なものではなかった。禁苑の奥にひっそりとたたずむ——けれど湖面に浮《う》かぶ月のような美しさがあった。悠久《ゆうきゅう》の歳月《さいげつ》を経たものにしかもてぬ、遙《はる》けき時の静けさかあった。  城下を一望できるこの楼閣のてっぺんから、国を見下ろすのが好きだった男がいた。  眼差《まなざ》しを遥か高みに据《す》え、いつも国と人の行く末を思っていた男。 『私は上へ行く。紅藍《こうらん》両家よりも上に立つ。絶対に。そのために私は公子に仕えるのだ』  国のためなどとは決して口にしなかった男。自分のためにのし上がるのだといつも言った。  そのくせ、あれは一度だって卑怯《ひきょう》な手は使わなかった。王族に次ぐ大貴族の出身でありながら、決して茶《さ》家の力を使うことなく、努力に努力を重ね、自分の力で階《きざはし》をのぼった。その眼差しの真実向かう先がどこにあったのか——宋太傅は知っている。 「自分でも、気づいてなかったのかもしれんな」  けれど少なくとも先王と自分と、そして霄《しょう》だけは知っていた。  地位を、権力を、名誉《めいよ》を、彼は確かに求めた。けれどそれを使ったのは、国と百姓《ひゃくせい》のためにのみ。かの眼差しが、自らに注がれることなどほとんどなかった。いつもこの高楼から国を見渡《みわた》していた彼が、何を思っていたか——。 「口にすることだけが、お前の真実ではない」  茶|鴛洵《えんじゅん》はもういない。一年前、謀反《むほん》を企《たくら》み、そして死んだ。  誰《だれ》があんなふうに「殺した」のか、すぐに見当はついた。多くの死線を越えた歴戦の将軍である宋太傅に、あの背中の傷が死因などとは信じられるわけもない。そして、滅多《めった》に顔色を変えない同僚《どうりょう》が、青ざめた顔でふらふらと自分の室へ入ってきた時に確信した。  それが鴛洵の望みだったのだと、すんなり受け入れられた。そして彼が何を思い、あんな行動をとったのかも。 「口にすることだけが、お前の真実ではない——」  もういちど、宋太傅は呟《つぶや》いた。かつてよく亡き友がいた場所に注がれる眼差しは鋭《するど》く。  老年になってからの鴛洵しか知らない若造どもは、知るよしもなかったろう。あれの真意に気づいたのは、おそらくは自分と霄のみ。邵可《しょうか》でさえ、知らなかったに違《ちが》いない。 「あれから、一年——。少しずつ、国は動き出した。お前の思惑《おもわく》とは、やや違ったがな。だが……だからといって、今さら未練たらしく迷い出てくるお前でもないだろう」  やるべきことはすべてやる男だった。自らに対して厳しすぎるほど厳しく、努力を惜《お》しまなかったあの男[#「あの男」に傍点]は、後悔《こうかい》や未練とは無縁《むえん》。 「この楼に、男の幽霊《ゆうれい》が出ると聞いてもしやと思ったがな」  宋太傅の視線の先——楼閣の最上階に、月明かりに照らされて一人の男が立っていた。  二十代後半|頃《ころ》とみえる若い男だった。老年の好々爺《こうこうや》然とした容姿からは想像もつかない神経質そうな顔立ち。苛立《いらだ》ったように眉《まゆ》を寄せ、薄《うす》い唇《くちびる》を引き結んで彼方《かなた》を睨《にら》むように城下を見下ろしているその男は、まぎれもなく見知った人物だった。  鴛洵——と、半ば呆《あき》れたように、その名を呟く。 「……しかも、若返ってやがる」  思わず宋太傅の口調も若いころに逆戻《ぎゃくもど》りする。楼の上、うすく霞《かすみ》のかかったような若い男は宋太傅の視線には気づかず、やがて姿を揺《ゆ》らめかせたかと思うと——ふっと消え失《う》せた。  宋太傅は頭をガシガシとかいた。 「……明日は新進士任命式だってのに……眠《ねむ》れんじゃないか」      *** 「お支度《したく》は調われましたか」  藍|楸瑛《しゅうえい》が室《へや》に入ると、すっかり紫《し》色の正装に身を包んだ青年が窓から下を見下ろしていた。  名門筆頭の藍家・紅家の色をあわせて顕《あらわ》れる紫《むらさき》は、この国における最高位の色。それをまとうことができるのは、ただ王族のみ。 「……皆《みな》、そろっているようだな」 「ええ、ほぼ」 「そろってない者もいるようだが」 「……まあ、いますね。理由は私に訊《き》かないでください。訊かれてもわかりませんので」  劉輝《りゅうき》は小さく笑った。再び窓の外を見る。  青い——青い昊《そら》だった。抜《ぬ》けるように蒼茫《そうぼう》たる昊。 「良い日だな」  呟くと、踵《きびす》をかえす。そして彼はゆっくりと目的の殿《でん》まで歩き出した。 「ああ、良い日だね、絳攸《こうゆう》」  吏部《りぶ》尚書《しょうしょ》・紅|黎深《れいしん》は回廊《かいろう》で立ち止まり、ぱらりと扇《おうぎ》を広げて澄《す》み切った青昊を見上げた。 「お前が状元及第《じょうげんきゅうだい》して、酒宴《しゅえん》で高位高官たちから『ぜひうちの婿《むこ》に』と追っかけられて逃《に》げまわってた日と同じ昊の色だ」 「……っっ!」  思い出したくもない悪夢を引きずり出され、黎深の後ろを歩いていた李絳攸はぷるぷると握《にぎ》り締《し》めた拳《こぶし》を震《ふる》わせた。とはいえ下手に文句を言おうものなら三倍で嫌味《いやみ》が返ってくる——。  しかし黎深の横顔を見て、思わず怒《いか》りを忘れた。彼は珍《めずら》しい——本当に珍しい微笑《びしょう》を扇の裏で浮かべていたのだ。嬉《うれ》しく、誇《ほこ》らしく、思わずこぼれおちたような微笑。  それが誰に向けられたものか、絳攸にはわかっていた。 (……俺が及第したとき、この人はこんな表情《かお》をしてくれただろうか)  少しだけ寂《さび》しさが忍《しの》びよる。それでも絳攸は笑った。彼も、同じ気持ちだったからだ。 (——ついに、この日がきた) 「吏部尚書、紅黎深さま。吏部|侍郎《じろう》、李絳攸さま。こ入殿《にゅうでん》でございます」  六部でも頂点に立つ吏部の長官とその副官の到着《とうちゃく》に、入殿を告げる下吏の緊張《きんちょう》した声がややうわずって響《ひび》く。  最上級の礼服に身を包んだ二人は、奉天《ほうてん》殿に足を踏《ふ》み入れた。  宮中一の広さを誇る奉天殿。正式な行事は常にここで行われる。今日、その殿には都中の高官がそろっていた。 「……李侍郎たちが及第したとき以上の騒《さわ》がしさだな」  仮面の尚書がうるさそうに呟く。  戸部《こぶ》尚書・黄奇人《こうきじん》は、この日もいつもと変わらぬいでたちだった。髪《かみ》を結《ゆ》わず素顔《すがお》も晒《さら》さないまま、平然と大式典に顔を出しても咎《とが》められることがないのは彼だけである。  仮面でこもる上官の声を、彼の後ろに立つ戸部侍郎の景《けい》柚梨《ゆうり》は正確に聞きとった。 「それはそうでしょう。何しろ上位三名が——あのような」  景侍郎自身、驚《おどろ》き冷めやらぬ声で奉天殿の庭院《にわ》前《さき》を見る。そこにずらりと頭《こうべ》を垂れて並ぶのは、及第したばかりの新進士たち。及第位順に並んでいるのだが、最前列の三席には。  ざわめく高官たちの視線と声は、一様にそこに向けられていた。  普段《ふだん》温厚《おんこう》な景侍郎だが、唯一人《ただひとり》の女人《にょにん》受験者が誰かを知ってからはさんざん上司に恨《うら》み言を言ったものだ。それでも今日は、詮《せん》ない恨み言より気にかかることがあった。  景侍郎は改めて第三位席を見た。そして穏《おだ》やかな顔を曇《くも》らせる。 「……これから、大変ですね」 「覚悟《かくご》の上だろう」 「それでも、現実は想像以上に厳しい。あなたもそれを知っていらっしゃるはずです」  咎めるように景侍郎は上司を見た。けれど黄尚書はいささかも同情の色をみせなかった。 「だからなんだ? そんなものは知ったことではない。女だろうが男だろうが、潰《つぶ》れる者は潰れる。堕《お》ちる者は堕ちる。……残る者は残る」  冷たい——と言いかけて景侍郎はやめた。後ろからきた新たな二人に気づき、道を譲《ゆず》る。 「私たちは待つだけだ。ここ[#「ここ」に傍点]まであの娘《むすめ》が這《は》いあがってくるのを。そうだろう、黎深」  振《ふ》り向かずに、奇人は言った。彼の一つ上座に立った男は口の端《はし》を微《かす》かに上げた。 「ああ。その通りだ」  今は遙《はる》か遠くの殿前から、やがて玉座のそばへあがってくるときを。  それはたぶん、遠い未来の話ではない。 「まさか、絳攸|殿《どの》の最年少記録があっさり破られるとはのう」  空の玉座の左|脇《わき》に立つ霄太師は、感心したように上位三席の進士席を見た。 「しかも女人が最前列に座っておるし、進士式をすっぽかした強者《つわもの》もおるしのう」 「……すっぽかしたのは藍楸瑛の弟か」  同じく玉座の右脇に立つ宋|太傅《たいふ》は、なぜが目の下に隈《くま》ができていた。彼が見つめる最前列三席のうち、真ん中は見事《みごと》に空席だった。そこは第二位で及第した者が座る場所。 「——ようやく、はじまるな」  宋太傅の呟きに、霄太師の目が細められた。そして空の玉座に目をやる。  去年は先王|崩御《ほうぎょ》の喪《も》に服すという名目で国試は執《と》り行われなかった。実際は新王が後宮にこもりきりでまるで政務に興味を示さなかったために取り止めになったのであるが。  けれど、今年は。 「ああ、ようやく、はじまる」  若き王が自らの目で選び抜いた初の進士たち。——そう、これからが、本当のはじまり。 「見せてもらうとするかの。若者たちがつくる、新しい時代を」  鐘《かね》の音が鳴り響いた。高らかに、最後の入殿者が告げられる。  そして至上の存在を迎《むか》えるために、霄太師と宋太傅はうちそろって膝《ひざ》をついた。      *** 「本年度、第一位及第者——状元、杜《と》影月《えいげつ》」  国試を司《つかさど》る礼部官が、朗々と今年度の国試及第者の名を読みあげた。 「——はい」  まだ子供のような声がわずかに緊張を帯びて響く。礼部官によって列の前方に連れてこられたのは、その声にふさわしい年齢《ねんれい》の少年だった。 「第二位——榜眼《ぼうげん》、藍…龍蓮《りゅうれん》」  ややためらいがあったのは、その声に応《こた》える者がいないからだ。まさか進士式をすっぽかす者がいるとは思いもよらなかった礼部は、刻限が迫《せま》っても姿を見せない「榜眼」に青くなり、次いで対策を考えたのだがさっぱり思いうかばず、王に伺《うかが》いを立てると例年通りにと言うので一応その通りにしたが……かなり居《い》心地《ごこち》の悪い沈黙《ちんもく》が落ちた。進行担当の礼部官は咳払《せきばら》いで間をごまかし、口早に次の及第者を読みあげる。 「第三位——探花《たんか》、紅|秀麗《しゅうれい》」  ぴん、と目に見えて空気が張りつめた。誰《だれ》もが一斉《いっせい》に呼ばれた進士に視線を注いだ。 「はい」  凜《りん》とした声は、少女のもの。進み出た彼女は、全身に突《つ》き刺《さ》さる何百という視線に抗《こう》するかのようにまっすぐに顔を上げた。  野の花のようだ。——そう思い、玉座の主《あるじ》はふと、笑《え》みをこぼした。 「以上、第一|甲第《こうだい》三名、唱名いたしました」   上治二年 国試及第者上位三名 [#ここから4字下げ] 第一位 状元 ——杜影月・十三歳 男 第二位 榜眼 ——藍龍蓮・十八歳 男 第三位 探花 ——紅秀麗・十七歳 女 [#ここで字下げ終わり]  それは李絳攸及第の年を抜く、あまりにも若すぎる上位及第者たちの誕生であった。 [#改ページ]    第一章 その掌にあるもの  深更《しんこう》——王都・貴陽《きよう》の片隅《かたすみ》で、一人の少年が数人の破落戸《ごろつき》に囲まれていた。十をいくつか越《こ》えたばかりの少年と破落戸とでは、体格からして大人と子供ほどの差があった。  明らかに袋《ふくろ》だたきの様相だったが、無勢であるところの少年はまったく泰然《たいぜん》としていた。それどころか、うるさそうに額にかかったやや長めの前髪《まえがみ》をかきあげる。 「……いい加減、つきまとうのはよせ。うっとうしい。おかげで泊《と》まる宿もなくなった」  少年の物言いに、男たちは下卑《げひ》た笑いを浮《う》かべた。 「へっ、何カッコつけてやがる。ガキが」 「何したんだかしらねぇが、うちの旦那《だんな》が馬鹿《ばか》にされたっていたくご立腹でな。ふん、お前を泊めてくれるような宿はもうねぇぜ? 旦那が手を回したからな」  少年は溜息《ためいき》をついた。 「公衆の面前で酒宴《しゅえん》の盃《さかずき》を断ったのも、娘の縁談《えんだん》をあっさり突っぱねたのも別にオレじゃないが……たかがそれくらいでねちねちと陰険《いんけん》でしつこい野郎《やろう》だ。まあ酒はともかく、あの縁談はオレでも鼻で笑ったろうけどな」 「——そういうこといってっから、少々痛い目みせてやれって言われんだよ」  指を鳴らして近づいてくる破落戸たちは、次の瞬間《しゅんかん》少年の姿を見失った。と思うと、破落戸一人が後方に吹《ふ》っ飛んだ。骨の折れる鈍《にぶ》い音が響《ひび》き、血反吐《ちへど》を吐《は》いて気絶する。 「な、なんだっ!?」  何が起こったかわからず首《こうべ》を巡《めぐ》らしたもう一人が、後頭部に強烈《きょうれつ》な蹴撃《しゅうげき》をくらう。間髪《かんはつ》入れず別の男は鳩尾《みぞおち》に強烈な拳《こぶし》を叩《たた》きこまれ、膝を落とす間に失神する。最後の一人は事態をまったく把握《はあく》できないまま、足払《あしばら》いをかけられ、ひっくり返った腹部にすかさず肘《ひじ》を打ち込まれ、悶絶《もんぜつ》した。  瞬《まばた》きの間に男たち全員を伸《の》した少年は、それでも息ひとつ乱していなかった。 「……身の程知らずが。さて、酒でも買いに行くか。影月の馬鹿が、金を全部送りやがって」  そしておもむろに倒《たお》れたままの破落戸たちの衣《ころも》をさぐると、うち一人の懐《ふところ》から財布《さいふ》とともに白い小箱を発見する。入っているものをちょっと見て、少年は皮肉げに頬《ほお》を緩《ゆる》めた。 「酒代の足しにはなりそうだな」  小銭《こぜに》の入った袋を掌《てのひら》でもてあそびながら、少年は飄々《ひょうひょう》と夜の闇《やみ》のなかに消えたのだった。      ***  馴染《なじ》みある街の人々が、遠くに見えた。  いつも気さくに声をかけてくれた彼らが、今は一様に戸惑《とまど》ったような顔で。視線が合うとさっと目をそらし、そそくさと逃《に》げるように立ち去る。用があっても、硬《かた》い声で最低限のことしかしゃべらず、早くどこかへ行ってくれというように顔を背《そむ》ける。よそよそしい、などという生易しい状態ではなかった。及第《きゅうだい》してからこの方、秀麗は彼らの笑顔どころか、まともに顔も見たことがない。塾の子供たちさえ、姿も見せなくなった。 『悪いんだけど——秀麗ちゃん、しばらくここへはこないでもらえるかい』  はっきりと、そう言った女人《ひと》もいた。数え切れないくらいお世話になって、人となりも生き様も、本当に専敬していた女性だった。秀麗のことをとても可愛《かわい》がってくれた。及第を知ったときも祝福してくれたのに。——好かれていると思っていた。彼女だけは変わらないと。それだけに、その言葉はひどくこたえた。  秀麗は溜息をついた。正直、こんなことになるとは考えてもいなかった。いや、考えたくなかったのかもしれない。手に入れたものと引き換《か》えにこぼれおちたものがあるなどと。  生涯《しょうがい》でいちばん嬉《うれ》しいとき。……なのに、心の半分は寒々として悲しい。  うつむきそうになる顔を上げる。自分で望み、選んだことだ。後悔《こうかい》はしないと決めた。だから秀麗は、街の人と目が合うと、いつも通り笑ってみせた。たとえ顔を背けられても、誰もが逃げていってしまっても。それが今の彼女にできるたったひとつのことだったから。  ふと、秀麗は前方をおぼつかない足どりで歩いていく小さな人影《ひとかげ》に気づいた。ずいぶんと薄《うす》汚《よご》れ、一見すると浮浪者《ふろうしゃ》のようななりである。  顔を見てぎょっとする。途端、沈《しず》んだ気分はあっというまにどこかへ吹っ飛んだ。  道ばたに生えている草の前に座りこみ、いかにも「食べられるかなー」などと考えていそうな少年のもとへ猛然《もうぜん》と駆《か》け寄ると、秀麗はそのうしろ襟《えり》をひっつかんだ。 「ちょっと待ちなさいっっっ!!」 「わぁっ?」  十をいくつか過ぎたばかりの少年はたたらをふみつつ顔を振《ふ》り向けた。人の好《よ》さそうな、どこかぽやーっとした感のある顔立ちは、確かに見覚えのあるものだった。 「あ、あれ……あなたは」 「——あれ、じゃないでしょう。ごはん食べたいんなら、うちへきなさい。いいわね!?」 「うわわ、でも秀麗さん、そんなご迷惑《めいわく》は」 「ご迷惑もへったくれもないわ! なんだって史上最年少で状元及第したばかりのあなたが、こんなところに座りこんで道ばたの草食べようとしてるわけっ!?」 「わぁすごい。なんでわかったんですかー」 「き・な・さ・い」  秀麗の据《す》わった目に、少年——杜影月はハイと頷《うなず》いた。  少年を引きずって家路へ向かう少女を、遠目から見つめる男がいた。目立たないようにつくらせた軒《くるま》から一部始終を眺《なが》めていた彼は、一目で大貴族とわかる三十前後の青年だった。 「……あれが、紅秀麗」  ひんやりとした声に感情はなかった。そして同じくらい冷ややかな視線を、街のあちこちに素早《すばや》く投げる。人相の悪い男たちが秀麗のあとを追うようにふらりと歩きはじめるのを見てとると、彼は微《かす》かな苛立《いらだ》ちが垣間《かいま》見《み》える溜息をこぼした。  心得たように、軒が走りはじめる。  反対方向へ走りはじめた軒の中で、彼はちらとも表情を変えないまま、立ち去った少女の背中にひとつ、視線を送った。      ***  秀麗の剣幕《けんまく》におされて邵可|邸《てい》へやってきた杜影月は、宿無しを強引《ごういん》に白状させられ、結果、かなりむりやり邵可や秀麗に説得されてしばらく邵可邸に居候《いそうろう》することになった。 「まったく、泊まるとこないってんならなんですぐうちにこないわけ?」  夕飯をつくりながら、秀麗は溜息をついた。それを手伝う影月が、はあと頭をかく。 「……お金がないのは自業《じごう》自得なので、そんな甘えるわけにはいかないと」 「状元には、確か銀八十両が俸禄《ほうろく》として与《あた》えられたはずですが」  やはり隣《となり》で秀麗を手伝っていた家人の静蘭《せいらん》が首を傾《かし》げると、影月は顔を赤くした。 「それが、その日のうちに郷里に送ってしまったので」 「……全部、ですか?」 「はいー」  豪快《ごうかい》というか無謀《むぼう》というか、……何も考えていないというか。 「ちょっと待って。影月くん、故郷に及第の文《ふみ》は出したんでしょうね?」 「いえ、礼部から連絡《れんらく》の早馬を出してくれるというお話だったので。その早馬にお金も託《たく》したんですけど、文のほうは頭になくて。残りのお金では料紙を買うまでには至らなくて」  秀麗と静蘭は呆《あき》れ果ててものも言えなかった。  今年の国試で秀麗とともに騒《さわ》がれた史上最年少の状元、杜影月はまったくもってうかつ極《きわ》まりない少年だった。黒州の田舎《いなか》から出てきて都慣れしていないせいもあるだろうが、この天然ぶりは元々の性格ではないかと秀麗は思う。  秀麗と影月は妙《みょう》な縁《えん》で会試《かいし》前に出会った。そのときも影月は街の破落戸どもに路銀を全部巻き上げられていた。おっとりしているというか、のんびりしすぎているというか、まるで邵可の小型版のような感じなのである。見るに見かねて秀麗は何かと手を貸したものだ。  国中の名だたる才子でも落第していく国試に十三歳第一位及第してしまったのだから、十六歳状元の李絳攸をも凌《しの》ぐ鬼才《きさい》のはずなのだが、いまだにそうは見えない。カモにされやすそうな垂れ気味の目、人の好さそうなぽやーっとした印象。その外見に見合う中身。  邵可と違《ちが》うのは、確かにトロそうだが結構実生活能力はあるという点だろうか。夕餉《ゆうげ》の手伝いをしている今も、ゆっくりではあるがきちんと食べられるもの[#「食べられるもの」に傍点]をつくってくれている。  まさかこんな少年が会試受験者だとは秀麗も露《つゆ》も思わず、知ったときは仰天《ぎょうてん》したものだ。会試前の騒動《そうどう》で親しくなり、受験者用宿舎でふたたび出会い、隣同士の室になるなど、不思議な縁がつづいてよく一緒《いっしょ》にいるようになった。——もっとも、影月は年齢《ねんれい》で、秀麗はその性別で、互《たが》いに周囲から奇異《きい》の視線で見られて孤立《こりつ》していたことも大きかったが。  受験期間中、秀麗はずいぶん彼の存在に救われたと思う。何より。 「影月くんが状元及第してくれて本当に救われたわ」 「え?」 「進士式トンズラしやがったあの男」  秀麗は丸めた生地《きじ》にドカッと麺棒《めんぼう》を叩《たた》きつけた。ふ、と蔭《かげ》りのある笑《え》みを浮《う》かべる。 「はっきりいって、あの男が第一位及第だったら私、この世の無情に絶望してたわ。ていうかだいたいなんであの男が榜眼《ぼうげん》なの。なんでよ。榜《たてふだ》見たときは自分のことよりあいつが第二位だったことに愕然《がくぜん》としたわよ。予備宿舎でも寝《ね》てばっかりいて、ご飯のときだけのうのうと起きあがって人のつくったものたらふく食べてまた眠《ねむ》って。たまに起きたと思ったらぴーひょろ笛|吹《ふ》いてんのよ! みんな必死に机案《つくえ》にかじりついてるときによ。馬鹿《ばか》じゃないのあんた! って怒鳴《どな》りこんだら『下々の者に風流を教えるのも高貴なる者のつとめ』とかほざいてんのよ。てかなんであの男がよりによって私の隣の室だったのよ————っ!!」  ドカドカと怒《いか》りに任せて麺棒を生地に叩きつける。みるみるうちに生地が庖丁《りょうりにん》顔負けの見事な薄《うす》さに引き延ばされた。 「……えーと……色々な意味ですごい人でしたよねー。外見も中身も」  藍龍蓮は秀麗の左隣で、影月は右隣だった。そのせいかこの三人はなぜか良く一緒にいるハメになり、龍蓮のとばっちりで秀麗と影月まで監督《かんとく》係に大目玉を食らうこともしばしばで、最後はとっととでてけと言わんばかりに宿舎を叩き出された。それでも一緒にいたのだから、自分たちの相性は秀麗が言うほど悪くないのでは、と影月は思っている。 「私、『容姿が十人並みでも、貧乏《びんぼう》で持参金がなくとも気にするでない。そなたが嫁《い》きおくれた暁《あかつき》にはこの私専属の庖丁《りょうりにん》として召《め》しつかわす』って真顔で言われたときには、本気で鍋《なべ》に毒キノコいれてやろうかと思ったわ。藍将軍の弟さんだから必死で我慢《がまん》したけど」 「……それは、どうもありがとう。我が弟ながらまったく耳が痛い」  不意に聞こえた声に、秀麗と影月、そして静蘭が振り返った。  邵可に案内された藍楸瑛がばつの悪そうな顔で口許《くちもと》を覆《おお》って立っていた。その隣で李絳攸が腐《くさ》れ縁の同僚《どうりょう》に冷たい視線を送っている。いつものように、二人の両手にはもろもろの食材が一杯《いっぱい》にあふれていた。 「あ、もういらしたんですか。すぐできますから、待っててくださいね」  秀麗は飛び上がって笑みをとりつくろうと、慌《あわ》てて餃子《ぎょうざ》をつくりはじめた。 「——まったく、本当になんなんだ貴様の弟は!」 「さすが、藍将軍の弟さんですね。進士式すっぽかすなんて後にも先にもないでしょうね」  絳攸が怒髪《どはつ》天を衝《つ》く勢いで怒《おこ》れば、静蘭が餃子をつつきながら笑顔《えがお》でちくりと刺《さ》す。  さしもの楸瑛も今度ばかりは抗弁《こうべん》の余地はなかった。 「……あれに関しては私も把握《はあく》範囲《はんい》外《がい》なんだ。もともと兄たちがむりやりとっつかまえて国試に放《ほう》りこんだようなものだし。いつか逃《に》げるなーと思ってたが、さすがに早かったな……」 「だったら落ちろ!」  絳攸の実《まこと》に正論な意見に、楸瑛は悲しげに首を横に振《ふ》った。 「大概《たいがい》やる気のない弟なんだが、やるからには全力を尽《つ》くす、っていうのが口癖《くちぐせ》の一つでねぇ……。じゃなかったら会試の前にとっくにトンズラしてるよ」 「あれで全力……」  受験期間中ぐーすか寝ているところしか見たことがない秀麗の顔が引きつった。 「兄が兄なら弟も弟だな! まったく兄弟そろってふざけた奴《やつ》らだッ!」  怒り心頭の絳攸に、それまで黙《だま》っていた邵可が微《び》苦笑《くしょう》を浮かべた。 「でも、本当に残念だね。せっかく久しぶりに藍家直系のご子息が文官として朝廷《ちょうてい》入りすると思ったのに」  その言葉に、静蘭と絳攸の目が鋭《するど》くなる。以前楸瑛が国試第二位|及第《きゅうだい》したときも、ようやく藍家が中央に戻《もど》る気になったのだとずいぶん騒がれた。紅家を凌ぐ名門藍家直系の者が中央にいるのといないのとでは、政事に格段の差がある。藍家に認められるか否《いな》か——それで歴代王の評価が決まると言われるほどなのだ。ゆえに、いまだ公子たちの乱が尾を引いていた七年前に楸瑛が文官として朝廷入りした時は、藍家が混乱状態の国と王を支えてくれるつもりなのだとかなり期待された。しかし、である。文官としてかなり優秀《ゆうしゅう》であったのにもかかわらず、楸瑛は数年であっさり武官に転向してしまった。 『文官は君、武官は私、ひとつところに優秀な人材が集まるのももったいないだろう?』  朝廷の嘆《なげ》きなど知らぬげに飄々《ひょうひょう》と言ったこの男はまるでバカだと絳攸は思ったものだ。  ——しかし、いまだ藍家の意向が読めないのも事実だった。  向けられる険しい眼差《まなざ》しに、けれど楸瑛はひとつ笑っただけで話題を変えた。 「前代|未聞《みもん》といえば、影月君だってそうだろう。受かるかもしれないとは思っていたけど、まさか状元及第とは思わなかったよ。絳攸の記録を軽く更新《こうしん》してしまったじゃないか」  自分の話題をふられ、影月は赤くなってうつむいた。いいえ、と控《ひか》えめに頭《かぶり》を振る。 「確かに。いくら年齢制限はないといっても……しかも貴族の後ろ盾《だて》なしですからね」 「そうよ。本当にすごいことよ。なのに自分で連絡もしないなんて」  秀麗はもってきた料紙の束を影月に押しつけた。 「ほら、今日中にこれに文を書きなさい」 「え、でも」 「でもじゃないわよ。お金の安全のためにも絶対書かなきゃダメよ」 「お、お金……?」 「そうよ。まったくあなたは抜《ぬ》け作よ! 銀八十両を全部一度に送っちゃうなんて。礼部の早馬ったって、届け手によっちゃ送ったお金が向こうに着くまでに半分に減ってることもあるのよッ。せめて盗《ぬす》むのもバカバカしくなるくらいの金額に小分けして送るべきだったわ」 「えっ、あっ、そ、そうなんですか」  ようやくその可能性に気づいた様子の影月に、秀麗は溜息《ためいき》をついた。死にかけていたところを道寺で介抱《かいほう》され、そのままそこで成長したという影月は自分同様かなりのド貧乏で玄人《くろうと》な麦飯生活歴が長かったと聞いたのに、どうしてこうも金銭に無頓着《むとんちゃく》なのであろうか。 「ほら、故郷のお道寺《てら》さんに確認《かくにん》の書状を書きなさい。ついでに合格の連絡《れんらく》もしたらいいわ。うちでだしといてあげるから。早馬代、特別安くしてもらってるから気にしないの」  秀麗の物言いに、影月は目を瞬《またた》いたのち嬉《うれ》しそうに微笑《ほほえ》んだ。  どちらがついでなのかと、他の面々も小さく笑う。 「そうだね。いくら礼部から早馬がでるからといって、やっぱり影月くんが自分で報告してあげたほうが、待ってる人もずっと嬉しいのではないかな」  邵可に優《やさ》しく諭《さと》されて、影月ははにかむように頷《うなず》いた。 「それよりお嬢様《じょうさま》、あれほど一人での外出は避《さ》けるようにと申しあげたはずですが」  じろりと静蘭に睨《にら》まれ、秀麗は首をすくめた。迎《むか》えにきた静蘭が途中《とちゅう》で絡《から》んできた破落戸《ごろつき》たちを叩きのめしてくれなかったら、今頃《いまごろ》秀麗と影月は身ぐるみ剥《は》がされていただろう。 「う、で、でもね、お塩買いに行くだけだったし」 「いけません。及第してからこのかた、『街を歩けば破落戸にぶつかる』じゃありませんか。今日だって何事もなかったからいいようなものの——」  絡む前の破落戸を静蘭がどれほど闇《やみ》に葬《ほうむ》ってきたか、秀麗は知らない。このところ、本当に秀麗の周りは危なくなっていた。 「そうだぞ秀麗、もう少し自覚しろ。お前は今や立派な金づると見なされたんだ」 「うん、自分で気をつけないとね。一人で出かけるのは、ちょっと危険だよ」  この件に関していつも口うるさくなる静蘭だけでなく、絳攸と楸瑛からも立て続けにお小言を浴びせられて、さすがの秀麗もぐうの音も出なくなった。  国試及第者——それも上位の者は、多額の俸禄《ほうろく》が与《あた》えられる上、様々な特権が付される。将来を見越《みこ》してつなぎを持とうとする官吏《かんり》たちから多くの物品が贈《おく》られたりもする。——もっとも、女官吏という、これからどうなるかわからない危なげな地位の秀麗と関係を結ぼうとする官吏は皆無《かいむ》であり、絡んでくる破落戸はかなり見当《けんとう》違《ちが》いをしているのであるが。  頃合《ころあ》いを見計らって、邵可は助け船とばかりに酒瓶《さかびん》をとりだした。 「えーと、影月くん、私から及第のお祝いだよ。甘くてあまり強くないから、少しだけなら」  一瞬《いっしゅん》、室の空気が冷えた。邵可をのぞく全員が、ごくりと息を呑《の》む。  影月と酒の関係を、そういえばこの場では邵可だけが知らないのだと思い出す。会試前の騒動《そうどう》やら何やらで、他の面々は知っていた。しかしいえなかった。 「あ、その、お気持ちは嬉しいんですけど、僕ちょっとお酒は」  影月は動揺《どうよう》し、椅子《いす》を蹴立《けた》てて酒瓶から逃げた。 「でも本当に軽いよ。厄落《やくお》としと思って呑んでみたら」  この発言がどれほど危険か、発言者だけが気づいていない。 「う、いえ、ほ、本当に匂《にお》いでも酔《よ》っちゃいそうなくらいなので」 「そうなのかい? じゃあ残念だけど、無理は言えないね」  ぶるぶると頭を振る影月を見て、邵可は残念そうに酒瓶をひっこめた。  ホッとしたように緊張《きんちょう》がゆるんだ。邵可だけがその場の空気に気づかず、話を続けた。 「……そういえば、吏部《りぶ》試はいつ頃《ごろ》になるのですか、絳攸|殿《どの》」  吏部試とは及第した進士たちをどこに配属するかを決める人事|選抜《せんばつ》試験のことで、主に人物を見るといわれる。これを通らねば官吏として働くことはできない。  国試が礼部の管轄《かんかつ》だったのに対し、これはその名の通り吏部が取り仕切る。進士たちの将来を決め、ひいては朝廷の人事を自由に左右できるこの権限を一手に握《にぎ》っているがために、吏部は六部《りくぶ》の一と言われるのである。六部にはそれぞれ尚書《しょうしょ》と侍郎《じろう》がいるが、吏部侍郎——つまり絳攸だけは残りの五侍郎と違って位が一つ高い。それだけでも吏部の権限の大きさがわかるというものだ。 「まだ知らせが届きませんが……今年は、例年よりやや遅《おそ》いようですね」 「ええ……」  絳攸の歯切れが悪い。守秘義務のせいもあるが、それだけではない。 「もしかしたら、私たちの年みたいになるのかな、絳攸」 「かも、しれん。今日、上司が主上に呼び出されたしな。まあ、妥当《だとう》な選択《せんたく》だが」  絳攸はちらりと年若い後輩《こうはい》二人を見た。邵可と静蘭はすぐにその意味を察したようだったが、秀麗と影月は首を傾げるしかない。 「……どういうことですか? 絳攸さま」 「いずれ通達がくるだろう。それまで待っていろ」  にやにやと楸瑛が絳攸を見た。 「不機嫌《ふきげん》だねぇ。主上《しゅじょう》が吏部侍郎でもある君になんの相談もせず上司殿を呼び出したから? それとも上司殿が君に何も言わず御前《ごぜん》にまかったから? いや、その両方かな。二股《ふたまた》とは君もやるね」  絳攸の堪忍袋《かんにんぶくろ》の緒《お》が派手《はで》に切れる音を、その場の誰《だれ》もが聞いたと思った。 「——貴様の無駄《むだ》口《ぐち》いますぐ縫《ぬ》い合わせてやる。秀麗、針と糸もってこい!」      *** 「……なるほど、それでは、本年度の新進士上位二十名に関しては吏部試を執《と》り行わず、まずは朝廷《ちょうてい》に留め置いて様子を見ると」  吏部尚書・紅黎深の言葉に国王劉輝はすぐには応《こた》えず、窓から城下を眺《なが》めわたした。  遠くの灯《ひ》が闇に浮《う》かぶ。今夜も街中が光り輝《かがや》き、にぎわっているのが執務《しつむ》室からも見てとれた。新進士たちが金にあかせて毎夜街にくりだし、そこここで祝宴《しゅくえん》をひらいているのだろう。 「父の時代も、たまにそういうことがあったと聞いている」 「ええ。私の時も、絳攸の時もそうでした。どこへ振《ふ》り分けるのか迷う人材が上位を占《し》めるとき、そういう手段がとられるようです。——まあ、妥当でしょう。時機を見るという意味でも。彼らは——特に杜影月と紅秀麗は、吏部試において人物を見て配属を決めるなどというごく普通《ふつう》の手順を踏《ふ》んだだけでは、とうてい受け入れられません[#「受け入れられません」に傍点]。あたらつぶされるのは勿体《もったい》ない」  氷の異名をとる尚書の『勿体ない』という言葉に、劉輝は軽く目を瞠《みは》った。 「そなたなら、つぶれていく者はそれだけの器量と、斬《き》って捨てそうなものだがな」 「もちろん、斬って捨てますとも。それなりの場を用意されて、それなりの結果も出せないような者はね。私は弱い者も甘ったれも馬鹿《ばか》も大嫌《だいきら》いですから。——昔のあなたを含《ふく》めて。ただ今回の場合は条件が悪すぎます。若芽をいきなり水中に投げ入れるようなものですから。救い出して土に置いてやるくらいはしないと、本人の努力とは関係なしに腐《くさ》るだけです」  劉輝は呆《あき》れたように黎深を振り返った。絳攸も同じくらい厳しいことを言うが、黎深は根本的に違《ちが》うところがある。決して劉輝に忠誠を誓《ちか》ってはいない点だ。 「……膝下《しっか》に屈《くっ》さする者、いずれにあるや、だな」  かつては藍楸瑛に贈られた言葉。だが、彼はついに劉輝の前に膝《ひざ》を折った。  黎深は皮肉げに口許《くちもと》をゆるめた。 「私とて膝を屈する相手はおりますよ。その人のために朝廷《ここ》にいるんです。確かにあなたに忠誠を誓ってはいませんが、お気になさらず。先王陛下に対しても同じことでしたから。それに私にここまで言わせることや、言われて怒《おこ》りもしないところはある程度評価しています」  王を王とも思わない口のききぶりである。これであの邵可と血の繋《つな》がった兄弟というのだから、まさに宮中七不思議だ。 「それでもそなたは朝廷《ここ》にいる。余の臣下として。それで充分《じゅうぶん》だ」 「あなたに見切りをつけたら、紅州に帰って隠居《いんきょ》する気満々ですけれどね」 「藍家の当主たちのようにか」 「ええ」  けれど劉輝はゆっくりと首を横に振った。 「そなたはそうはなるまい。余のそばに邵可と——絳攸がいるかぎり。でなくば余の即位《そくい》後すぐに隠居していたはずだ。あの二人に火の粉がふりかかる心配がある限り、忠誠心はどうあれ、そなたはとりあえず真面目《まじめ》に余に仕える。だからこそ霄太師もそなたの養い子を余の側近に引き抜《ぬ》いた。違うか?」  黎深は冷ややかに笑った。この王は面白《おもしろ》い——そう思っているのは確かだ。ただ、国も王もどうでもよいと思っている彼は、すこぶる能吏《のうり》だが佞臣《ねいしん》にも忠臣にもならないだけの話だ。 「太師はともかく、兄上たっての請《たのみ》でなければ、絳攸を寄越《よこ》したりはしなかったのですが」 「後悔《こうかい》しているか?」 「後悔? 私の辞書にそんな言葉はありません。ただし、あれに後悔させたが最後、あなたの首を即刻《そっこく》すげかえますから、そのおつもりで」  まるで明日の天気を話しているような口調だった。けれど劉輝にはわかる。彼が冷酷《れいこく》非情と畏《おそ》れられるのは、政事《まつりごと》の手腕《しゅわん》だけではない。そうと判断したなら、持てる手管《てくだ》を駆使《くし》して文字通り劉輝の命を狩《か》りにかかるだろう。だからこそ、彼の存在は貴重でもあった。 「ああ、頼《たの》む」  笑《え》みさえ浮かべて、劉輝は頷《うなず》いた。黎深はどうでもいいことのように鼻を鳴らした。 「先ほどの件は本日中に書状を作成のうえ、各人へ届けさせておきます。期間は?」 「春の除目《じもく》にカタがつくまで」 「わかりました。では御前失礼を」 「……紅尚書」  辞して下がろうとした黎深を、劉輝が引き留めた。 「秀麗の後見を引き受けてくれてありがとう」  黎深は凄絶《せいぜつ》な笑みを浮かべた。背筋が冷たくなると称《しょう》される吏部尚書の微笑《びしょう》だった。 「別に。主上のためではまったくありません」 「秀麗には、誰が後見についたか、いまだ伏《ふ》せているそうだな」 「私事にまで首をつっこまないでいただきたい」  とりつくしまもない臣下に、しかし劉輝はひるまなかった。 「及第を一緒に祝ってやれなかったから、そんなにつんけんしてるのだろう」 「根本的な要因は別にあります。そもそも私はあなたが気に入らないのです」  敬愛する兄・邵可に長年そばにいてもらって(黎深の方はつれなくされてばかりだ)手取り足取り勉強を教えてもらうという恵《めぐ》まれた環境《かんきょう》にいたのに、それに気づきもしないばかりかダダこねて昏君《ばかとの》のふりをして兄を困らせ、心配させた。あげく、かわいい姪《めい》まで一時《いっとき》嫁《よめ》にとり(黎深は存在さえ認知《にんち》されていない)、いまだに周辺をうろちょろしている。王でなければとうに抹殺《まっさつ》している邪魔《じゃま》さ加減だ。  表に出さない分、黎深の怒りは深く、かつ大人げなかった。 「……余は、実は、そなたのことが結構好きなのだが」  相手のはらわたの煮《に》え具合になど気づきもせず、劉輝は大真面目に告げた。しかしもとより黎深は年少組のように簡単にほだされたりはしない。 「私を寝台《しんだい》に連れこもうとするなど、百年早いですよ。一昨日《おととい》おいでなさい」  氷の微笑を残してとっとと室を出ていった臣下に、劉輝は困ったようにこめかみをかいた。 「純粋《じゅんすい》な気持ちで言ったつもりだったのだが」  見下ろせば、城下には煌々《こうこう》と明かりの灯《とも》る夜の街が広がっている。 (……秀麗)  彼女がこの明かりのどこかにいる。そう思うだけで劉輝の心は慰《なぐさ》められた。  やせ我慢《がまん》といってもいいかもしれない。それでも、劉輝はこらえることができた。そう——今までは。 (秀麗は、後宮を退いても『秀麗』だった)  進士式の日を思い出す。遥《はる》か向こうに跪拝《きはい》していた少女。探花及第したとはいえ、進士の席は玉座から遠い。顔も見えないほどのその距離《きょり》が、これから現実になる。  もしかしたら、と思う。この一年、繰り返し考えてきた。  劉輝は掌《てのひら》に目を落とした。一年前、王の手となったそのなかには、秀麗の笑顔も確かに入っていた。けれどこれから、官位と引き換えにその笑顔は指の間をすり抜けるかもしれなかった。彼女の笑顔は——いや、豊かな表情のすべては、垂れた頭《こうべ》の下にあるのだから。  良い王になると約束した。それは今も変わっていない。待つ覚悟《かくご》もあった。兄を十年以上待ちつづけたようにいつまでも。けれど。  今はわずかな焦《あせ》りがあった。焦燥《しょうそう》という感情を、劉輝は今までほとんど知らなかった。  女人《にょにん》受験制を導入したことを間違《まちが》いだったとは思っていない。秀麗が官吏《かんり》となることも、それが彼女の力であれば間違いではないのだと、王としての理性はそう告げる。けれど劉輝の部分が否《いな》やを唱える。本当に、少しも後悔していないのか——と。 (後悔など、しない)  頭をもたげてくる想《おも》いを、意志の力でねじ伏せる。  後悔はしない。どんな未来が待っていても。劉輝が王であり続け、秀麗が官吏であり続ける限り、彼女は自分のそばに在る。  秀麗が笑ってくれるなら、それでいい。今はそう思う。けれど——もしかしたら。 (……余は、いつか、この王権《ちから》を自分のために使うかもしれない)  ただ一つの願いを、この掌に留《とど》めるために。  手を握《にぎ》りしめると、彼は一人|臥室《しんしつ》に向かった。この一年がそうだったように、今日もまた。  彩雲《さいうん》国の国主の後宮に、いまだ妾妃《しょうひ》はいない。      ***  すっかり暗くなった夜の庭院《にわ》で、秀麗は燭台《しょくだい》片手に午間《ひるま》忘れた水やりをしていた。  春の初め——夜風はまだひんやりと冷たい。 「——秀麗」 「あ、絳攸様。もうお帰りですか?」 「ああ、だがその前にお前に用があってな」  絳攸はふと秀麗のうしろに目をやった。ぼんやりとした灯火《ともしび》の向こうに、一本の木があった。 「……李《すもも》、か」 「あ、はい。父様が去年いただいてきて。成木なんですけど、腕《うで》の良い職人さんが移植してくれて、もう蕾《つぼみ》がついてるんです。ふふ、久しぶりに、このお庭院でお花を、見……」  不意に途切《とぎ》れた声に、絳攸は木から秀麗に視線を移した。ついさっきまで手にしていたはずの燭台が、なぜか地面にある。  絳攸は首を傾《かし》げ、それから珍《めずら》しくうろたえた。夜の帷《とばり》で表情までは見えなかったけれど、さすがにわかった。そして考えに考えた結果、絳攸は手巾《てぬぐい》をぐいと押しつけた。 「……好きなだけ、目に入った塵《ごみ》をとってろ」  ぶっきらぼうにそれだけ言うと、そっぽを向いて口をつぐむ。自分は静蘭でもバカ王でも、ましてや楸瑛でもない。これが精一杯《せいいっぱい》だった。  秀麗が頷く気配がした。ざわ、と夜の冷気が草木を揺《ゆ》らす。  どのくらいそうしていただろう。不意に、燭台がふわりと浮《う》いた。 「ありがとうございます、絳攸様。あとで洗ってお返ししますね」  いつも通りの秀麗の声に、絳攸は内心ホッとした。 「秀麗、午の件だがな、本当に自重しろ。自分が今どれだけ特異な存在かわきまえろ。世の中には馬鹿《ばか》が多い。せめて官位と配属が決まるまでは一人で出歩くな。必ず静蘭と行け」 「はい……すみませんでした」  その言葉の本当の意味を秀麗が知るのは、もう少しあとだったけれど、ぴんと張りつめた声の真剣《しんけん》さに、秀麗は軽率《けいそつ》を恥《は》じた。 「それと、官服の件なんだがな」 「官服?」 「女の官吏は初めてだろう。まさか及第するとは衣工《したてや》も思ってなかったらしくてな。サッパリ考えてなくて、どういう官服にしたらいいかと泣きつかれたんだ。男とまったく同じでもいいかと思ったが……どうする?」 「ああ、そういうことでしたら別に」  お任せします——と言おうとしたとき、絳攸が珍しくも返事を待たずに言をついだ。 「拝受する位や配属によって決められている装飾《そうしょく》があるからな。任官の半月前に衣工に伝えれば大丈夫《だいじょうぶ》だろう。多分……任官はだいぶあとになる。ふた月くらい考える時間はあるはずだ」  秀麗はわずかに沈黙《ちんもく》した。 「ふた月……ずいぶん遅《おそ》いんですね。それは、私が女だからですか?」 「そうだな。関係はある」  絳攸の口調はそっけないほど淡々《たんたん》としていた。彼は決して嘘《うそ》や慰めは言わない。  進士式のとき、幾千《いくせん》もの悪意ある視線に、秀麗は顔を上げるだけで精一杯だった。立って歩けたのが不思議なくらい足が震《ふる》えた。喉元《のどもと》に氷の刃《やいば》をつきつけられたような。  これから、この視線の中へ足を踏《ふ》み入れるのだ。そう思うと、及第したのを後悔《こうかい》しそうにさえなった。あれほど望んだものをこの手につかんだはずなのに。 「——あがってこい」  顔を上げると、絳攸がまっすぐに秀麗を見ていた。 「これから、お前はたった一人だ。俺や楸瑛の助けは期待するな。これまでの主上の恩寵《おんちょう》などないものと思え」 「……わかってます」 「それでも、あがってこい」  もう一度、絳攸は繰り返した。 「お前の目指す場所まで」 「————」 「その歳で、探花及第したのは、俺や邵可様の力ではない。お前のなかに強い思いがあったからだ。でなければ、十七で探花及第はできない。たどりつきたい場所があるんだろう?」  唇《くちびる》をかみしめ、秀麗はうつむいた。 「あります。けど」 「泣き言は聞かない。別のやつに言え。国試|及第《きゅうだい》がお前の望みではないだろう」  秀麗はハッとしたように絳攸を見た。 「これからのお前を支えるのは、その望みだ。叶《かな》えられる場所まで、死ぬ気で這《は》い上がってこい。自分の望みは自分で叶えて見せろ。——待っていてやる」  絳攸は決して慰めは言わない。優《やさ》しい言葉ではなく、強い言葉で、うつむきかけた顔を上げさせてくれる。手を差しのべるのではなく、振《ふ》り返らず前を歩くことでその背を追いかける力をくれる。 「……はい」  忘れていた。望んだのは、国試及第ではなかった。その先にあるもの。  まだ始まりに立ったばかりだということを。 「少々しゃべりすぎたな。……ああ、今日の餃子《ぎょうざ》は見事《みごと》だった。特に皮の薄《うす》さが」  踵《きびす》を返した絳攸に、秀麗は思わず訊《き》いた。 「絳攸様の、強い思いはなんですか」  かつて十六歳で状元及第をしてのけた彼には、どんな思いがあっただろう。  絳攸は足を止め、灯《あか》りにぼんやりと浮かぶ李の木を見た。その視線が少しだけさまよう。 「俺か? 俺の思いなど簡単なものだ。……ある人のそばにいて、その助けになりたかった。与《あた》えてくれたたくさんのものの、恩返しを少しでもしたかった。それだけだ。お前より遥かに不純な動機だろう」 「叶ったんですか?」 「……どうだかな。あの人は、多分、俺などいてもいなくても何も変わらないからな」  話は終わりとばかりに歩き出した絳攸に、秀麗は思い出したように問うた。 「絳攸様。私の後見についてくださった方のお名前、まだ教えてくださらないんですか?」 「あっ、ああ。まだ覚悟《かくご》が……じゃない、謎《なぞ》に満ちた男でいたいんだそうだ、な」  急に歯切れの悪くなった絳攸は、どこか慌《あわ》てた表情で奇妙《きみょう》なごまかし方をした。  秀麗は小首を傾げた。かなり強引《ごういん》に決定された女人試験においては、いくつもの条件が付けられた。その中のひとつに、正三品以上の官吏《かんり》か大貴族の後ろ盾《だて》という項目《こうもく》があった。現在|正四品《せいよんぴん》上の絳攸では、秀麗の後見につくことはできない。それ以上の官位といったら長官級である。それほどの大官が、女官吏などという海のものとも山のものともつかぬ——しかもおそらく女人登用反対派からはかなりの反発を受けるだろう不利な立場を自ら買ってくれたと聞いた時、秀麗は心から感謝した。しかし、なぜかいまだにどこの誰《だれ》だか教えてくれない。 「そうですか。じゃあよろしくお伝え下さい。あとですね」 「なんだ。もういい加減俺は帰るぞ」 「はあ。でも門はそっちじゃありませんよ」  行きかけた絳攸の足がぴたりと止まった。 「……わかってる! この草にちょっとばかり興味があったんだ!」  真っ暗闇のくせにそんなことをいう。 「あー菜の花ですね。今度いらしたとき、おひたしにしてお出しします」  尊敬する絳攸のなけなしの矜持《きょうじ》を傷つけないように、秀麗は笑顔《えがお》で応《こた》えたのだった。 [#改ページ]    第二章 初日  ※《し》[#「くさかんむり/此」]静蘭は剣《けん》を手にとり、刀身をすらりと抜《ぬ》いた。質《しつ》のよくない量産型の官給品。ふと、かつて当たり前のようにもっていた宝剣を思いだす。——そういえば、あの双剣は今どこにあるのだろう——そう思いを巡らし、自嘲する。今の自分があの剣を手にしてどうするというのか。  武官とはいえ下《した》っ端《ぱ》も下っ端の静蘭に、任務で剣を抜く機会はほとんどない。だがそれでいいと思っていた。剣など飾《かざ》りでいい。それが、彼らのそばにいる条件のようにも思っていた。  ——けれど、これからは。  静蘭はひとつ息をついた。  かつて与えられた宝剣を今頃思い出した理由を、静蘭はよくわかっていた。      *** 「吏部《りぶ》試の前にこんなことがあるとは思わなかったわ」  軒《くるま》に揺《ゆ》られながら、秀麗はお仕着せの白衣を見下ろした。  白の官服は進士のみが着るものだった。配属が決まるまでは何の位もないので、無位|無冠《むかん》をあらわすこの色をまとう。白は彩《さい》七家の一つ白家の色なので、本来なら直系でなければ基本色として使えないのだが、もともと武門の白《はく》家はたいして頓着《とんちゃく》せずに新進士たちにならと了承《りょうしょう》したらしい。——どうもしばらくはこの官服のお世話になりそうだ。  馭者《ぎょしゃ》の静蘭が苦笑《くしょう》しながら振り返った。 「毎年じゃありませんよ。絳攸|殿《どの》以来だそうですから、七年ぶりといったところでしょう」 「しばらくお城で色々な官吏の先輩《せんぱい》にくっついて仕事を覚える、って書状には書いてありましたけど……見習い期間みたいなものなのでしょうか」  秀麗と向かい合わせに座る影月もまた、秀麗同様、官服に着られている感じである。 「でしょうね」 「秀麗さん、なんだか憂鬱《ゆううつ》そうですね」 「……まあね。できれば中央宮辺りには配属されたくないわね」  去年の夏を思いだし、秀麗の顔が引きつる。まさかあのときはこんなコトになるとは露《つゆ》ほども思わず、一生に一度の機会と思って、少年姿でのびのび働いてしまった。あれから一年も経《た》っていないのに、今度は女として舞《ま》い戻《もど》ることになってしまったのだ。……バレたらどうなることやら。 (あーどうしよう。でも黄|尚書《しょうしょ》付きで、会うのはたいていお偉《えら》いさんばかりだったから何とか乗り切れるかしら。まさか及第したばかりのひよっこを、上層部に見習いとして放《ほう》りこんだりはしないだろうし) 「秀麗さん」  影月に呼ばれて、秀麗はとりとめのない物思いから浮上《ふじょう》した。 「ん?」 「頑張《がんば》りましょうね」  不思議、と秀麗は思う。この少年の「頑張る」はなぜかおざなりに聞こえない。さらりとしてやわらかい口調だけれど、芯《しん》のある強さを感じさせる。真剣《しんけん》な——心のこもった言葉。  一緒に[#「一緒に」に傍点]頑張ろうと言ってくれる存在がいることを、秀麗は幸せに思う。 「とりあえず、僕、隣《となり》にいますからー」 「優しいわね」  会試と殿試《でんし》を乗り切れたのも、影月や龍蓮たちがそばにいてくれたことが大きい。  でもこれは、秀麗が乗り越《こ》えるべき戦いだったから。 「ありがと」  相変わらずであろう同期の進士たちに備えるべく、秀麗は肚《はら》に力をこめた。 「お嬢様《じょうさま》、影月君、宮城です」  静蘭の声に、秀麗と影月は顔を上げた。  城門をくぐると、羽林《うりん》軍の軍装をまとった武官が一人近寄ってきた。 「——ご苦労。あとは余…じゃなかった私が案内するでござる」  微妙《びみょう》に変な敬語を使ったその青年武官を見て、三人は絶句した。 「あんたこんなとこで何してんのっっ!?」  秀麗は魂《たましい》の叫《さけ》びをあげた。      *** 「……俺も甘いな」  書翰《しょかん》を整理しながらカラの執務《しつむ》机案《づくえ》を見た絳攸に、楸瑛は笑った。 「そうでもないだろう。いい措置《そち》だったと思うよ、色々な意味でね。今回ばかりは静蘭を使うわけにはいかないし。主上の腕《うで》なら補ってあまりある」  それに、と楸瑛は絳攸を手伝いつつ付け足した。 「君だって、主上に同情しただけで了承したわけじゃあるまい?」  絳攸が公務に関して感情に引きずられる男ではないことを、楸瑛は知っている。 「まあな。とりあえず朝議と春の除目《じもく》の選定、あと最低限の仕事だけしてくれればいい」 「——ところで今回の教導官、やっぱり魯《ろ》官吏《かんり》みたいだねぇ」  楸瑛は懐《なつ》かしげに目を細めた。 「私たちのときを思い出すね、絳攸。お互《たが》いさんざん目をつけられちゃってさ」 「……親の仇《かたき》かってくらい目の敵《かたき》にされてしごかれたな」 「秀麗|殿《どの》たちも、これからが大変だね。それにこちらの仕事も増えそうだし」  楸瑛はほころびはじめた庭院の花々を見て、微《び》苦笑《くしょう》した。 「春の除目、か。また色々ありそうだねぇ」 「ないほうがおかしいだろう。対策は?」 「誰に訊《き》いてる? 絳攸」 「……このところ妓楼《ぎろう》に通い詰《つ》めという噂《うわさ》があるが?」 「ちゃんと仕事はしてるって。妬《や》かないでくれ絳攸。私も健康な成年男子なんだよ」 「——妓楼より先に医者に通いつめて、その腐《くさ》れ頭をすげかえてもらえ!」  楸瑛は笑うと、世間話のついでのようにさらりと言葉を紡《つむ》いだ。 「——例の指輪[#「例の指輪」に傍点]が見つかったと、報告がきたよ」  絳攸の目が見ひらかれた。 「書状の時刻が間違《まちが》ってるですってぇええ!? 私たち二人とも!? ちょっとふざけてんじゃないわよ————っっ」 「ち、遅刻《ちこく》しちゃいますぅう」  秀麗、影月、ついでに勝手に案内役となった劉輝の三人は、全速力で庭院《にわ》を駆《か》けていた。 『ずいぶん、遅《おそ》かったな』  という劉輝の言葉に、劉輝への詰問《きつもん》もどこへやら、秀麗は目を点にしたものだ。遅い? かなり早く到着《とうちゃく》したはずだ。——しかし実際の集合時刻は書状にしたためられたものよりもかなり早いと劉輝から聞いた瞬間《しゅんかん》、秀麗と影月は血相を変えた。そうして全力|疾走《しっそう》をはじめたわけだが、なぜかうしろからは街の破落戸《ごろつき》と大差ない下《した》っ端《ぱ》兵士たちが追いかけてくる。 「ていうかあの兵士何!?」 「そなたたちを辿《たど》り着かせないために誰《だれ》かが寄越《よこ》した邪魔《じゃま》だろう」  劉輝は眉《まゆ》をひそめた。 「下級兵士にまで手を回すとは、暇人《ひまじん》がいるな。ああ、そこの繁《しげ》みを突《つ》っ切ると早いぞ」 「ていうか本当になんだってあんたがいるのよ!!」 「秀麗さーん。相手は王様ですよぅ」  国試最終試験は王を含《ふく》む国政の最上層部との対面式面接だったため、さすがの影月も劉輝が誰だか知っていた。 「良いのだ影月。余はこれでシアワセなのだ」 「——あんたちょっとそこの池にでも沈《しず》んでてちょうだい」  劉輝の寝言《ねごと》を、前方をゆく秀麗が容赦《ようしゃ》なくたたき斬《き》る。 「こんなに尽《つ》くしているのに。やはり二体目の愛の藁人形《わらにんぎょう》を送ったほうがいいだろうか」 「送ってくれるならただの藁にしてちょうだい。納豆《なっとう》づくりの藁にでもするわ」  先頭を突っ走る少女の腕をつかみ、劉輝は自分の胸に引き込んだ。そして前方から突進《とっしん》してきた兵士を剣《けん》の鞘《さや》でなぐって失神させると、影月を引きずり、三人で近くの大きな繁みに身を隠《かく》す。バタバタと通りすぎていく兵士たちをやり過ごしたあと、秀麗は溜息《ためいき》をついた。 「……前途《ぜんと》全難[#「全難」に傍点]ね」 「だから余がきたのだ」  劉輝はほつれた秀麗の髪《かみ》をそっと梳《す》いた。 「しばらく王様業の大半は、完璧《かんぺき》に仕事をしてくれる、ある者に任せた」 「は?」 「余…私は、今日からそなたら付きの武官になる」 「——はぁああ!?」      ***  秀麗と影月は何とか刻限に間に合った。  頓着《とんちゃく》せずに庭院を駆けてきた二人の格好はかなりボロボロになっていた。息せき切って滑《すべ》り込んできた二人に礼部の下吏《かり》がぎょっとしたように身をひくなか、二人はできる限り格好を整えた。特に秀麗はこれからに備えるべく、深く息を吸った。  室までは入れない『衛士《えじ》』の劉輝は、ふとごそごそと自分の袷《あわせ》をさぐった。 「秀麗」 「なに」 「遅くなったが、及第《きゅうだい》、おめでとう」  そっと差し出されたのは、一輪の黄色い小さな花だった。しかし差しだした手を劉輝は慌《あわ》てて引っ込めた。 「摘《つ》んだまま懐《ふところ》に入れておいたから、へなへなに…——い、今のはなしだ!」  秀麗は手を伸《の》ばし、半分ひしゃげてしまった花を劉輝の手の中から掬《すく》い上げた。 「——……これで充分《じゅうぶん》よ」  福寿草《ふくじゅそう》という名のそれは、お祝い事には欠かせないもの。いつも頓珍漢《とんちんかん》なことしかしない劉輝だが、今回は珍《めずら》しく的を射た贈《おく》り物だった。花も、時も。 「ありがとう。行ってくるわ」  秀麗はにっこり笑った。  秀麗と影月が下吏に先導されて大堂《おおひろま》に入ると、ぴたりとざわめきがやんだ。けれどそれもわずかの間、前より大きな嘆《なげ》き声や聞こえよがしな囁《ささや》き声が堂内に満ちる。 「……ほんとにきたぜ」 「身の程《ほど》知らずな」 「正規の手順|踏《ふ》んで及第したわけでもないのにのこのこと」  冷ややかな視線と憎悪《ぞうお》が全身に突き刺《さ》さって、あっという間に秀麗を悪意の棘《とげ》で針鼠《はりねずみ》のようにしてしまう。 「女人《にょにん》受験などと。一人も及第者がなくは面子《めんつ》がつぶれるからと、温情で通したんだろうよ」 「いくらなんでも探花及第はやりすぎだろう。私たちの努力を何だと思って……」 「我々が今までどれほどの時間と労力を費《つい》やしてここまできたか!」 「せっかくの及第の喜びも、女と一緒《いっしょ》じゃ半減だ」 「女は家で子供産んでおとなしくしてりゃいいんだよ」 「まったく。女|風情《ふぜい》に何ができる。しかもよりにもよってこんな小娘《こむすめ》が——」  心が震《ふる》える。いや、心だけでなく、全身が小刻みに震えた。  及第してから絶え間なく叩《たた》かれる陰口《かげぐち》に、少しも慣れない自分が情けなくなる。  ——顔を、あげなさい。  それは呪文《じゅもん》。大好きな女性が秀麗にかけてくれたもの。  女であることに負い目はもたない。女性であることに誇《ほこ》りをもつ秀麗が、無責任な噂に泣くことは許されない。たとえどんなに深く傷ついていたとしても。  そっと、劉輝がくれた福寿草を、袷の上からおさえる。お守りのように。  うつむきかけた自分を叱咤《しった》し、秀麗は前を向いた。  声をかけようとしていた影月は、それを見てホッとしたように笑った。  わずか十三歳で状元及第を果たした影月も、決して好意的な視線は受けていない。素直《すなお》に賛辞を送るには、彼はあまりにも歳《とし》が若すぎたのだ。それでも、彼はいつも通りだった。 「蔡《さい》礼部|尚書《しょうしょ》、および魯《ろ》礼部官のおなりでございます」  下吏の声に、一斉《いっせい》に広間が静まりかえった。  礼部長官である蔡尚書は、恰幅《かっぷく》が良く、穏《おだ》やかそうな笑《え》みを浮《う》かべる初老の重臣だった。対して魯官吏は、蔡尚書と同じほどの歳でありながら、こちらは生まれてから今まで顔面の筋肉を動かしたことがないのではないかと思えるほどいかめしい面《おも》もちをしていた。 「改めまして、国試|及第《きゅうだい》のお祝いを申しあげます」  蔡尚書がにこにこと進士一同を見渡《みわた》した。 「今年は主上の命により、あなたがた上位二十名は一時|朝廷《ちょうてい》預かりとなりました。みなさんはこれから国の柱となるべき大切な方々です。限られた期間ではありますが、この機会を生かし、少しでも多くを学んでいってください。いずれ再びこの朝廷の中央宮でまみえることを、心より願っております」  そしてうしろに控《ひか》える魯官吏を振《ふ》り返る。 「さて、あなたがたの教導官をつとめるのは、この魯礼部官になります。何度もこういったことを経験しておられるかたですから、良く皆《みな》さんを導いて下さるでしょう。申し訳ありませんが、仕事が控えていますので私はこれで失礼いたします。あとのことは魯官吏に」  魯官吏は一礼さえもしなかった。ただ黙《だま》って灰色に近い鋭《するど》い目で進士たちを見回す配下に、蔡尚書は困ったように短い髭《ひげ》をしごいた。 「……魯礼部官、あなたにすべてを任せるが、彼らはまだ官位も拝命していないのだから、どうかお手柔《てやわ》らかに。いずれ大官となる進士たちです。くれぐれも扱《あつか》いに気をつけるように」 「わかっております」  ぶっきらぼうともとれる短い言葉で応じた魯官吏に、やや心配そうな目を向けながらも、蔡尚書は室を辞した。  そのあと、魯官吏は進士一同をもう一度見渡した。一人一人|値踏《ねぶ》みするかのような視線を送る。秀麗と影月に目を留めた瞬間、その眼光が鋭くなった。 「紅進士、杜進士、ずいぶん官服が汚《よご》れているようだが?」 「あの……」 「口ごたえは結構。身だしなみがなっていない。自覚が足りないようだな」 「……すみませんでした」 「ここを鶏《とり》小屋《ごや》と勘違《かんちが》いしているのか? よろしい、あとでふさわしい仕事を割《わ》り振る」  書状の時刻が間違《まちが》っていてあまつさえ兵士に追いかけられて庭院《にわ》をつっきって走ってきた、などと言ってもおそらく信じてはくれまい。二人は弁明を諦《あきら》めた。  魯官吏の声は、外見にふさわしく淡々《たんたん》として感情がなかった。 「今年度の新進士上位二十名に関しては、配属が決まるまで礼部官である私の監督《かんとく》下に置かれる。それぞれに仕事を割り振るのも私の役目であり、私自身は礼部官ではあるが、参考になればと思い、吏部にも逐一《ちくいち》君たちの情報を書き送ることになっている」  広間がざわめいた。吏部に情報を送る——ということは、彼の評価|次第《しだい》では今後の配属や位に影響《えいきょう》を及《およ》ぼす可能性があるということだ。一瞬《いっしゅん》で進士たちの空気が変わった。 「及第者の中でも上位にくいこんだ君たちは、将来この国の中枢《ちゅうすう》を担《にな》う可能性が大きい。今上《きんじょう》陛下の御代《みよ》初の進士であるという点でも、重要な存在となるであろう。よって、例外的|措置《そち》として配属前のふた月を城内で過ごしてもらうことになる。官位はないが、様々な実務を任されるだろう。そのなかで、自分たちが思ったことをひと月半後にはそれぞれまとめ、提出してもらう。提出先は私でなくとも構わない。また連名でもよい。内容も形式も自由だ」  いくつもの驚《おどろ》いたような囁き声が広間を満たす。  それを静めるかのように、魯官吏の沓《くつ》が高く鳴った。 「——また、毎朝|卯《う》の刻六つ(七時)にこの室で朝礼を行い、仕事の内容と結果を確認《かくにん》する。わずかの遅《おく》れも許さぬ」  魯官吏は懐から書翰《しょかん》をとりだした。 「それでは仕事と配属先を告げる。細かい仕事は各人配属先にて聞くように」  そして彼は朗々と書翰を読みあげはじめた。      *** 「礼部の魯|官吏《かんり》——か」  禁苑《きんえん》の一角にひっそりと立つ高楼《こうろう》のてっぺんで、霄太師は宋|太傅《たいふ》とともに盃《さかずき》を傾《かたむ》けていた。その特別な場所で、霄太師は今はいない亡《な》き友のために盃をひとつ置いた。それは一年、変わることなくつづけられたもの。  進士たちが集められている宮を見下ろし、霄太師はくつくつと笑った。  今頃《いまごろ》、若き進士たちはさっそく何かしら因縁《いんねん》をつけられているだろう。 「それにしても久しぶりに、出てきたのう」 「上司にはいい顔をし、裏では新人官吏を教育の名目でいたぶる——もう五十もとうに過ぎたくせに、名ばかりの高官で、新人いびりで憂《う》さを晴らしている——と。相変わらずの噂《うわさ》だな。まあ、こういうときにしか噂にならんが」  宋太傅は酒盃《しゅはい》をあおった。 「叩き台か」 「必要じゃろう?」  楽しげに霄太師が応じる。この表情を今まで何度みて来ただろう、と内心ため息をつきつつ宋太傅は首を軽く振った。 「名剣《めいけん》ほど、鍛《きた》える際にはこれでもかと叩《たた》かれまくるからな。だが、そろそろ退《ひ》かせてもいい頃《ころ》ではないのか」 「それを決めるのは主上じゃ。春の除目《じもく》でな」  風に乗って、李《すもも》の花びらが飛ばされてきた。霄太師の盃にはらりと落ちる。 「ふふ……ふた月後は色々ありそうじゃの」 「ところで霄。いい加減ここに出る幽霊《ゆうれい》男のことをだな——」 「呑《の》み比べで勝ったらなんでも言うこと聞いてやるぞい。だがまだ勝負はついとらん」 「……つく前に庖厨所《りょうりどころ》の酒がなくなるわ! さっき行ったらこれ以上一本もやれんと尚《しょう》食官長に泣かれたんだ。だいたい貴様と勝敗などついた例《ためし》がないだろうが!」 「じゃ、後日また再戦とゆーことでの」  盃の縁《ふち》を舐《な》めながら、霄太師が目を細める。宋太傅はあきれたように悪友を眺《なが》めた。 「このザルが! 歳《とし》くっても相変わらずだな!」 「お前こそその歳でよくまあ丈夫《じょうぶ》な肝臓《かんぞう》じゃのぅ」  霄太師は嬉《うれ》しそうに花びらごと盃をあおったのだった。 [#改ページ]    第三章 春の新人研修実施中 「馬鹿《ばか》な……あ、あの小箱をなくしただと!?」  妓楼《ぎろう》の最上階でその報を聞いた初老の男は、脂汗《あぶらあせ》を滲《にじ》ませて室をせわしなく歩き回った。 「もう見つかったと連絡《れんらく》してしまったのだぞ。ないと知れたら——大金と、せっかくの昇進《しょうしん》の機会が水の泡《あわ》ではないか!」 「お大尽《だいじん》様、どうぞ落ち着きなさいまし」  あでやかで耳に快い声が、甘えるように響《ひび》いた。その声以上に麗《うるわ》しく艶麗《えんれい》な美女が、酒を杯《はい》に注ぐ。落ち着かないながらもとりあえず椅子《いす》に座った男は、ぎろりと破落戸《ごろつき》たちを睨《にら》んだ。 「この無能どもがっ! せっかく高い金を払《はら》って養ってやってるというに——」 「だ、旦那《だんな》。こ、心当たりはありやす。なくしたっつーか……多分、奪《うば》われたんです」 「——誰《だれ》にだ! 取り戻《もど》せるのか!?」 「そ、それは……、でも奪った奴《やつ》の居所はわかりやす。旦那もご存じでしょう、今うわさの、あの女官吏ってやつと一緒《いっしょ》にいるガキです」  酒杯をあおった彼は、妙《みょう》な顔をした。 「なんだと? ——あの小僧《こぞう》が?」  破落戸たちは顔を見合わせ、自分たちの名誉《めいよ》のために、少しばかり嘘《うそ》をついた。 「……その、落とした小箱があのガキのとこに転がって、あいつ、あっというまに拾って走り出しちまって。旦那が宿無しにしちまったから、どこに行ったかもわかんなかったんすよ」 「そうですそうです。したら次の日、女官吏と一緒に歩いてて——」 「なんだってそれを早く報告しない! くそ、頭がどうでも血筋と育ちの悪さは隠《かく》せぬということか。だが——ふん、まあいい。あの小僧ならばこちらの手の内……」  男はふと口をつくんだ。再びぽつぽつと額に汗が浮かびはじめる。 「……いかん、小僧はあの小娘と一緒にいる……小娘の後ろ盾は紅黎深」  男は忘れていない。紅黎深が李絳攸に命じて自分にしたことを。あの屈辱的な出来事以来、男にとって黎深は憎んであまりある仇敵《きゅうてき》となった。それに黎深は目端の利く若造だ[#「目端の利く若造だ」に傍点]。秀麗とかいう小娘経由で、あの指輪が彼の手に渡りでもしたら——。 (指輪も、金も出世も横取りされる)  ならばどうする。小娘と小僧を脅して指輪の在処《ありか》を吐かせるか。しかし間の悪いことに彼らは宮城にこもりきりだ。下手に脅して黎深に話がいったら、すべての努力は水の泡となる。  今のところ黎深には何の動きも見られない。とすれば指輪のことなど知らぬ可能性が高い。わざわざ藪《やぶ》をつついて蛇を出すような真似《まね》はしないほうがいい。さあどうする——男はめまぐるしく思考を巡らせた。 「……そうだ」  本物をなくしたのなら、今から瓜二つの贋物《にせもの》を作らせて、そちらを本物ということにしてしまえばいい。もともと発見の報を入れたのは自分だ。信憑《しんぴょう》性はある。ならば偽物の指輪が完成する前に万が一にもあの小僧たちが外部に話をもらさぬよう、早急に手を打たねば。  手を打つ? 男は笑った。——最初からそうすれば良かったのだ。気に食わぬ者など。 「死人に口なし——だ」 「お大尽様?」 「胡蝶、用ができた。残念だが今宵は暇《いとま》する」  それは残念ですこと、と、女は謎めいた笑みとともに溜息《ためいき》をこぼした。      ***  仮面の戸部《こぶ》尚書《しょうしょ》は、決裁の途中《とちゅう》で不意に手を止めた。考えこむようにすらりとした指先を顎《あご》にやる。そしておもむろに決裁済みの書翰から十数枚を引き抜《ぬ》いた。  そのとき、景|侍郎《じろう》が溜息をつきつつ室に入ってきた。 「……はあ、秀くんたちもおかわいそうに……」 「また言ってるのか」  去年の夏、秀麗は猛暑《もうしょ》でばたばた倒《たお》れて前代|未聞《みもん》の人手不足だったこの戸部で少年のふりをして手伝いに入っていた。くるくるよく働く秀麗を景侍郎は「秀くん」と呼んで可愛《かわい》がっており、少女と知った今でもなんとなくそう呼んでしまう。 「当たり前でしょう。秀くんに与《あた》えられた仕事、各部署の厠掃除《かわやそうじ》ですよ!? 杜進士は沓磨《くつみが》き! 他の進士たちは各部署に振《ふ》り分けられて、それぞれ普通《ふつう》の仕事をしているというのに……よりにもよって国の宝たるべき上位二人が厠掃除と沓磨きなんて信じられますか!?」 「あの魯官吏だからな。仕様があるまい」 「……そういえば、あなたの年もあの方の指導を受けたんですよね」 「ああ。私は庖厨所《りょうりどころ》で毎日皿洗いしていたな。黎深のやつは厩番《うまやばん》の手伝いでな」  景侍郎の眉《まゆ》が跳《は》ねあがった。 「なんですって? あなたがたにそんなことを!? なんて命知らずな……じゃありません。なぜ魯官吏を放《ほう》っておくんです? 今のあなた方なら退官に追い込むことも可能でしょうに」 「這い上がる者は這い上がる。放っておけ」 「でもですね」 「それより柚梨、これを秀麗と杜進士の仕事に付け加えておけ」  黄尚書は数十枚の書翰《しょかん》を景侍郎に押しつけた。 「確か厠掃除と沓磨きは午前中までで、午過ぎからは書翰の整理などで府庫にいるのだろう。二人が府庫にくる前に、これを仕事のなかに適当に紛《まぎ》れこませておけ」  あっさりと命じられて、ついに景侍郎の怒《いか》りが爆発《ばくはつ》する。 「あ、あなたという人は! 見損《みそこ》ないましたよ。今だって嫌《いや》がらせで、彼らが与えられた仕事以上のものを各官吏たちから押しつけられているのを知らないわけではないでしょう!?」 「だからなんだ。干されるよりよっぽどマシだ。いいから言うとおりにしろ」 「鳳珠《ほうじゅ》!」 「——行け。お前は私の配下だろう。文句は道々その書翰でも眺めながら考えていろ」  怒りに頬《ほお》を染めながら、景侍郎は書翰に目をやり——そして見る間に表情を変えた。次々と書翰をめくり、最後には低く呟《つぶや》いた。 「……鳳珠、あなたは」 「行け。もう文句は聞かぬ」  礼をとって退出した部下の姿を見送ってから、黄|奇人《きじん》は再び仕事をはじめたのだった。      *** (……ふ。上等じゃないの!)  秀麗はガッシュガッシュと勢いよく厠の床《ゆか》を磨いていた。 「こんなんでへこたれると思ったら大間違《おおまちが》いよッ! 新人が厠掃除なんて賃仕事で今まで腐《くさ》るほどやってきたんだから!」  威勢《いせい》のいい声も、臭《にお》いよけに覆《おお》っている布のおかげで変な風にこもる。 「見てなさい。ぴっかぴっかに磨きあげて魯官吏の度肝《どぎも》を抜いてやるわッ」  午前中は各部署の厠掃除——それが魯官吏から言い渡《わた》された秀麗の仕事であった。  影月の沓磨きとあいまって、かなりのどよめきがあがった。そして次の瞬間《しゅんかん》にはほとんど嘲笑《ちょうしょう》にとってかわった。似合いの仕事だ、と。  抗議《こうぎ》をしてくれた者もいないではなかったが、魯官吏の表情はちらとも揺《ゆ》らがなかった。 『仕事を決めるのは私だ。各進士にふさわしい[#「ふさわしい」に傍点]仕事を割《わ》り振ったつもりだが、何か異存でもあるのかね』  ちらりと影月と秀麗を見やる。その瞬間二人は「否《いな》」と答えていた。  影月は相変わらずのおっとりとした笑顔で。秀麗は反発を含《ふく》んだ決意の顔で。  絶対へこたれるものか——そう思った。 「ああもう、それにしても臭《くさ》いわねっ。お偉《えら》い官吏《かんり》様も出るものは同じってコトね!」  一応名家の令嬢《れいじょう》とは思えぬ雑言をまき散らし、ぷりぷり怒《おこ》りながら、ざっと桶《おけ》の水をまく。  これでここは終了《しゅうりょう》。いや。 「忘れてた。これこれ」  秀麗は咲《さ》き初《そ》めの桜の一輪挿《いちりんざ》しを窓辺に置く。 「まあ、これで厠もちょっとはマシよね」  額の汗《あせ》をぬぐうと、外に出る。優《やさ》しい春の風に、秀麗は目を細めた。  大きく息を吸い、吐《は》く。そうすれば心にたまるものも、少しはマシになりそうな気がした。 「おお、臭い臭い。何やら豚《ぶた》の臭いがするぞ」  うしろから聞こえた声に、秀麗は振り返った。二人の官吏を認めると、頭《こうべ》を垂れる。 「見よ。雌豚《めすぶた》かおるわ」 「汚《けが》らわしいですねぇ。豚といえど、やはり雌の立ち入りは禁ずるべきでは。厠といえど神聖な朝廷《ちょうてい》を歩き回られるのは不快です。今度進言しましょう」 「それはいい」  何を言われても、秀麗はひと言も発さなかった。それを見て官吏たちはつまらなそうに鼻を鳴らすと、厠へ歩いてゆく。 「そうだ、そなた聞いておるか。例の——」 「ああ、かなりの額が動いているようですね。どうやって調達しているのやら」  二人が厠へ入ると、秀麗は背を伸《の》ばした。じん、と両手がしびれた。強く握《にぎ》りすぎて、真っ白になった掌《てのひら》には、濃《こ》い爪《つめ》のあとが残っていた。  それを見つめながら、秀麗は少しだけ目を閉じ、そして顔を上げた。 「いや、悪いね。状元様に沓磨きなどさせてしまって」  言葉とは反対に、嘲笑と沓を投げてきた官吏に、影月は笑顔《えがお》を返した。 「いいえーお仕事ですから」  状元とはいえ、影月はまだ十三歳であり、しかも貴族や大家の後ろ盾《だて》もない。権力をもたない今がやりたい放題だった。若くして大官への道を歩みはじめるであろう影月に、ねたみそねみの視線を送る者はあれど、好意的な者はやはり稀《まれ》で、そういう意味で彼にとっても宮廷《きゅうてい》は居《い》心地《ごこち》のよい場所ではなかった。——秀麗ほどではないとしても。 「黒州のド田舎《いなか》でカツカツの生活をしていたっていう君には、慣れた仕事かね」 「ええ。その通りですー。あ、でもこんなご立派な沓は磨いたことありませんけれど」  影月は何を言われてもいつもにこにこ笑っていた。それが反感を余計に煽《あお》ることもある。沓を履《は》いて立ち去る間際《まぎわ》、過《あやま》ったふりをしてわざと影月を蹴りつけていく者も少なくない。  それでも影月の笑みが消えることはなかった。 「今日はこれで四十九人目ですねー。あと一人で五十人達成です」 「じゃ、頼《たの》む」  そっと磨き台にのせられたとびきり上等な沓に、影月は顔を上げた。そしてにっこり笑う。 「——王様の沓を磨くのは、生まれて初めてですー」 「うむ。余も目の前で磨いてもらうのは初めてだ」  興味|津々《しんしん》とばかりに、劉輝はうずくまって沓が磨きあげられるのを見ていた。 「……なるほど、沓はこうしてぴかぴかになっていくのか」 「沓によって、磨く布の種類も達うんですよー。傷つきやすい沓はやわらかい布なんです」 「うむ。おばあちゃんの知恵《ちえ》袋《ぶくろ》というものだな。もしくは莢豌豆《さやえんどう》知識」 「……豆知識のことですかー?」  しばらく会話が途切《とぎ》れた。布のこすれる小さな音のなか、劉輝はポツリと訊《き》いた。 「つらくはないか?」  影月の笑《え》みが深まった。いいえー、と彼は言った。 「沓磨きでも、たくさん勉強になりますから」 「……そうか。もう少しの辛抱《しんぼう》だ、と言おうとしたのだがやめる」 「僕のことより、秀麗さんのほうを気にかけてあげてください。ずっとずっと大変です」  劉輝はそっと笑った。 「わかってる。——影月」 「はい?」 「そなたに、これを」  手渡《てわた》された小さな包みに、影月は首を傾《かし》げた。何気なくひらき、ぎょっと目を剥く。 「何かあったときに、これを使え」 「え、で、でもこれは——むしろ静蘭さんがもっていたほうが」 「いや……今の静蘭では、秀麗のそばにずっといることは許されない」  そばにいたとしても、影月のように堂々と姿を現すことはできない。——今のように。  それが、位の差というものだった。 「終わりました。どうぞ」  差し出された沓を見て、劉輝は感嘆《かんたん》した。まるで新品のようである。 「じゃあ、そろそろ時間ですし、ご一緒《いっしょ》にお午《ひる》を食べに行きましょうかー」 「うむ。……そなたはいつもにこにこしているな。何を言われても」  皮肉でも何でもない真顔の王に、影月は苦笑《くしょう》した。 「たいしたことじゃありませんし。それに僕、後悔《こうかい》だけはしないように心がけているんです。たった一度の人生ですしー。笑って過ごしたほうが、ずっといいでしょう?」 「……若いのに、悟《さと》っているな」 「あははーよく言われます。昔、死にかけたからかもしれないですねー」  さらりというと、朗《ほが》らかに影月は笑った。  正午の鐘《かね》が、朗々と鳴り響《ひび》いた。 「……またきたわけ」  当然の顔をして飄々《ひょうひょう》と傍《かたわ》らに立つ劉輝に、秀麗はぷるぷると震《ふる》えた。 「そうだ。護衛するといったではないか。これから四六時中取り憑いているつもりだ。呼べばどこからともなく現れる」 「——呪《のろ》いよりタチが悪いわね。ていうかあんた呼んでなくてもくるじゃないの」 「間違《まちが》った。張りついているつもりだ。糊代《のりしろ》のようにな。これで何が起こっても安心だ」 「あんたのしてることがまさしく不安なのよっ!」  午は府庫の近く、人のこない池のほとりで食べるのが秀麗と影月の日課になっていたので、秀麗は遠慮《えんりょ》なく怒鳴《どな》った。 「——あんた自分をダレだと思ってんの!?」 「心配するな。余の顔を知っているのは重臣くらいのものだ」 「そういう問題じゃないでしょう!」  影月がいつものようにはらはらと二人を見守っている。 「だいたい、護衛ってんなら前みたいに静蘭でもいいじゃないのよ」 「ダメだ」 「なんでよ」 「静蘭はただの門番だ。十六衛でも中位の武官で、入殿《にゅうでん》にもかなりの制限がある。もとより誰《だれ》かの護衛が任務となる役職にない」 「だから、あんたが」  言いかけ、秀麗は口をつぐんだ。恥じるようにうつむく。 「……なんでもないわ」  ちらり、と劉輝は視線をあさってのほうに向けた。木の陰《かげ》に綺麗《きれい》に気配を隠《かく》して誰がいるのか——劉輝は知っている。誰より心配していながら、今の静蘭は姿を現すことはできない。 「そなたら二人は、今がいちばん危ない。官位も役職もさしたる後ろ盾もなく、突然《とつぜん》姿が消えても誰も頓着《とんちゃく》しない。余も公然と捜索《そうさく》ができぬし、罪も問えぬ」 「——命の危険があるっていうこと?」  ズバリの質問に迷うことなく頷《うなず》く。劉輝は隠さなかった。 「最悪の場合は、そうだ。気に入らぬというだけで、簡単に人の命を奪《うば》おうとする輩《やから》など、普通《ふつう》にそこらを闊歩《かっぽ》している。もともと、女人《にょにん》官吏登用は猛《もう》反発をくらったし、今でもそれは変わっていない。追い出すという一線を簡単に踏《ふ》み越《こ》える者がいてもおかしくない」  静かに二人のやりとりを聞いていた影月は、差し出そうとした三人ぶんの箸《はし》を落とし、慌《あわ》てて拾い上げて手巾《てぬぐい》でぬぐった。 「影月くんも?」 「秀麗のほうが危険だが。影月は、貴族たちが進士のためにあちこちで開いていた酒宴《しゅえん》で、ことごとく縁談《えんだん》話を蹴ったろう。あと酒も」 「ああ、かなりきっぱりと断ってたわね」 「え!? だ、だって僕まだ十三ですし、それにお酒|呑《の》めないんですってば」 「断り方がまずかったな。酒は呑めなくても呑んだふりをすればよかったのだ。ああした席で真正面から盃《さかずき》を断ると、高慢《こうまん》な貴族どもは馬鹿《ばか》にされてるとしか思わない。縁談話もうやむやにしといてあとでこっそり断るのが地位の高い者のたしなみで、公衆の面前でふると『お前と縁続き? ふはははは。顔を洗って出直して参れ』ということになる」  霄太師からまたヘンな本をもらったらしい、と秀麗は思った。ひそかにこのごろの王の偏《かたよ》った読書|傾向《けいこう》を危惧《きぐ》している秀麗である。  しかしそんな作法などまったく知らなかった影月は飛び上がらんばかりに驚《おどろ》いた。 「ええ!? そ、そーなんですかぁ!?」 「貴族からすれば、無位|無冠《むかん》の平民を我が家の婿《むこ》に迎《むか》えようというのになんだその態度は、と激怒《げきど》するわけだ。朝廷《ちょうてい》に集まる者たちは、権力争いのためならなんでもネタにする。『聞いたかどこぞのお大尽《だいじん》、無位無冠の平民上がりに縁談を断られたらしい』という噂《うわさ》ひとつでめちゃめちゃ馬鹿にされて貶《おとし》められたりする。そうなると相手は杜影月のせいだと逆恨《さかうら》みするのだ。というか既《すで》にされている。これも結構危ない。面子《めんつ》に異常にこだわる者なら特にな」 「…………。………………えーと、秀麗さん、冷めないうちにお茶どうぞー」  あからさまな現実|逃避《とうひ》をした影月に、秀麗は同情しつつ黙《だま》って湯飲みを傾《かたむ》けた。そしてふと首を傾げる。……どうも、少し妙《みょう》な味がした。 「でも、大丈夫《だいじょうぶ》だ。そなたらは自分のすべきことをしていればいい」  劉輝は庖厨所《りょうりどころ》で毎日仕出しされる折詰《おりづめ》をいそいそと開けはじめた。 「余計なことは考えなくていい。ちゃんと守る」  一瞬《いっしゅん》だけ見せた鋭《するど》い表情に、秀麗は息を呑んだ。見たことのない顔だった。しかし。 「……ほっぺたにご飯粒《めしつぶ》つけながら言われてもねぇ。あんた全然進歩ないじゃないの」  頬《ほお》についた飯粒に、見間違いだ、と秀麗は思い直したのだった。      *** 「おお、この時期の君の室はすごいね」  絳攸の執務《しつむ》室に入るなり、楸瑛は大げさに眉《まゆ》を上げて見せた。  しかし実体は大げさどころではなかった。  高価な文箱《ふばこ》やら綺羅綺羅《きらきら》しい物品やらが山のようにこんもりと室の一角を占領《せんりょう》していた。それを見ながら絳攸はうんざりと息を吐《は》いた。 「ふん、賄賂《わいろ》をおくってくるようなやつに俺がイイ顔するとでも思ってるのか」 「というか、何もしないでいる度胸がないだけだろう。ほとんどはただのご機嫌《きげん》伺《うかが》いだし」  適当にばらばらと文《ふみ》をめくる楸瑛。そこには「なにとぞナニとぞナニトゾよろしく」と、目的語のない文面が連綿と続いている。必死の様子がありありとわかる文である。 「今度の除目《じもく》で最終的な昇降格《しょうこうかく》を決定するのは君と吏部《りぶ》尚書《しょうしょ》だと思われてるからねぇ」 「物品はまだいい。売っぱらうなり脅迫《きょうはく》の証拠《しょうこ》に使うなり使い途《みち》があるからな」  不機嫌《ふきげん》真《ま》っ盛《さか》りの絳攸に、楸瑛はすぐに察した。 「ははあ。またぞくぞくときはじめてるのかい、縁談」 「——まったく、俺は女が嫌《きら》いだといくら言ったらわかるんだ! だいたい、昇進目当てに見合い話もってくるなんざ短絡《たんらく》もいいとこだ。バカじゃないのかまったく」  べしっと豪華《ごうか》な巻物を机案《つくえ》に叩《たた》きつける。どうやら見合い相手の似姿らしい。 「あっはっは。進士|及第《きゅうだい》のときを思い出すねぇ」 「思い出すな! 闇《やみ》に葬《ほうむ》れっっっ。記憶《きおく》から削除《さくじょ》抹消《まっしょう》しろ————ッ!!」 「君だって別段女性嫌いじゃなかったのに、あのとき色々あったせいですっかりひねくれて」 「ひねくれたんじゃない! 女の本性《ほんしょう》を知ったんだッ。おおいい経験だったとも!」 「窮地《きゅうち》を幾度《いくど》となく救ってあげた機転の利《き》く親友がいたからこそいえる台詞《せりふ》だねぇ」 「たたた助けてくれなんてひと言も」 「うん、頑固《がんこ》な君は絶対言わないから、窮地を察して私が助けてあげてたんだよね」 「————っっ」 「以心伝心とはやはり愛かな」 「きっ、貴様なんぞ豆腐《とうふ》の角に頭ぶつけて死んでしまえッ!!」  すごい勢いで飛んできた絵巻物を、楸瑛はなんなく受けとめる。はらりと巻物がほどけた。 「あのとき吏部尚書も面白《おもしろ》がって最後の最後まで助けなか——あれ、この似姿の女性は」  見覚えのある似姿に、楸瑛の視線が留まる。絳攸がフンと鼻を鳴らした。 「面白いだろう。欲しいならやる」 「確かに面白い。もらっておこう。……しかし君と吏部尚書|殿《どの》に散々な目に遭《あ》わされたってのに、まだ娘《むすめ》を縁談相手に寄越《よこ》すとは。相変わらず面《つら》の皮が厚い男だねぇ」 「あれは俺の意志じゃない。あの人が——」 「でも実行したのは君だろ」  苦い過去を思い出して反駁《はんばく》する絳攸を、楸瑛が軽やかに封《ふう》じる。 「いやーお見事《みごと》だったね。公衆の面前で見事に君に鬘《かつら》をカッ飛ばされてさ。飛んだ鬘がまた見事に灯《ひ》にかかって、一瞬で灰になったときのこの世の終わりみたいなあの男の悲鳴にもう大爆笑。あれでいかに紅黎深に目をつけられると怖《こわ》いか再確認《さいかくにん》したね。本人、何事もなかったように今も必死で鬘をつけつづけてるっていうのも根性《こんじょう》あるけど」 「——何か話があってきたんじゃないのか!?」 「ああそうそう」  楸瑛は手際《てぎわ》よく巻物を丸めると、トンと自分の肩《かた》を叩いた。 「燕青《えんせい》から茶《さ》州を出たと文が届いた。到着《とうちゃく》はひと月半後。あの娘——香鈴《こうりん》も一緒《いっしょ》だそうだ」  思わぬ話に、絳攸は目を見開いた。 「理由は」 「自分で茶家の内情を伝えたいそうだ。それと秀麗|殿《どの》にも会いたいと」 「…………」 「どうする? 秀麗殿は香鈴が茶州に去った本当の理由を知らない」 「どうする、だと? 迷う必要などどこにある」  絳攸は立ちあがった。静かな顔で窓辺から下を見おろした。その視線の先には府庫がある。 「あのころとは違《ちが》う。——今の秀麗は官吏《かんり》だ」  楸瑛は笑った。彼が、こんなふうに自らと対等に扱《あつか》う女性は、彼女一人だ。 「……だね。私でもそうすると思うよ」  楸瑛は頷《うなず》いて、親友の仏頂面《ぶっちょうづら》を覗《のぞ》き込んだ。 「絳攸、君、女性の本性を知ったとか言ってたけど、秀麗殿もそうだと?」 「あれは弟子だ。女の範疇《はんちゅう》に含《ふく》まれてない」 「でも、れっきとした女性だよ。ねぇ絳攸、女性嫌いでもいいけど、これだけは忘れないでほしいね。君が知っているのは女性のほんの一部にしかすぎないってことをね」  そっぽを向いた絳攸に、楸瑛は小さく笑った。 「彼女、頑張《がんば》ってるみたいだね。いやでも噂は耳に入ってくるし、大変な光景も目にするし。秀麗殿のあの笑顔が、全然見られなくなってしまったのは本当に残念だけど」  彼女の立場を考えて、彼らは紅家を訪れるのを控《ひか》えていた。回廊などでたまに会うことがあっても、秀麗は必ず面《おもて》を伏《ふ》せている。同じ城内にありながら、その顔をまともに見ることもなくなってしまった。朝廷に組み込まれたそのときから、身分の差、地位の上下は絶対のものとなる。無冠《むかん》の秀麗がまっすぐに彼らを見ることはできない。それは最初から、わかってはいたことだけれど。 「私でも寂《さび》しく思うくらいだからね。あれを主上がやられたら、かなりの打撃《だげき》を受けてただろうねぇ」  至高の位、絶対の存在。  自らに甘えをゆるさず、公私を混じえぬ彼女なら、迷わず王に跪拝《きはい》し叩頭《こうとう》したろう。紫劉輝という一人の男ではなく、一国の主として。 「秀麗殿には迷惑《めいわく》極《きわ》まりないだろうけど、護衛の件、了承《りょうしょう》して正解だったと思うよ。王の不在をごまかす君は大変だろうけどね」 「大変のひと言ですますな。周りを煙《けむ》にまくのも一苦労だ」 「頑張りたまえ。じゃ、私は行くよ。こっちも別口の件で色々と忙《いそが》しいんでね」  にっこり笑うと、楸瑛は退室した。  回廊《かいろう》を歩きながら、藍楸瑛は視線だけでいま出てきたばかりの執務室を見る。  ——絳攸はちゃんと気づいているだろうか? 秀麗の立場と、そして自分自身の立場に。 (黎深殿には、子がいない)  いるのは、李|姓《せい》を与《あた》えられた養い子のみ。いずれ史上最年少の宰相《さいしょう》になるとまで言われている彼を、かの紅一族が放《ほう》っておくはずがない。  そしてもう一人——本来ならば正統なる紅家宗主であった長子、邵可の娘。誰《だれ》よりも血の濃《こ》い紅家直系の長姫《ちょうき》。  才能と血筋と。この二人を紅一族がどう考えるか——少し考えを巡《めぐ》らせば誰にでも容易に想像がつく。もとより紅家には、その重い家名を継《つ》ぐべき子供が意外なほど少ない——。  ふと、楸瑛は苛立《いらだ》たしげに眉をひそめた。 (……しかし、いったいなぜ黎深殿は、絳攸に紅姓を与えなかったんだ)  このことだけは黎深に何度問いつめようと思ったかしれない。大切な友が、本当はそれをとても気にしていることを、楸瑛はよく知っていたから。      ***  午を過ぎてからが、秀麗と影月にとって本当の勝負どころだった。 「……く……お、終わらない……」  深夜——秀麗と影月は府庫にこもっていた。膨大《ぼうだい》な仕事量に、初出仕以来二人は一度として邸《やしき》に帰れた例《ためし》がない。府庫で夜明けを見るのもこれで連続十日目に突入《とつにゅう》だ。 「お、終わらないですねー……」  疲《つか》れの頂点を越《こ》したせいか、妙《みょう》に冴《さ》える目をぎんぎんに見ひらきつつ、秀麗と影月は必死で膨大な書翰《しょかん》の山と格闘《かくとう》していた。劉輝はといえば、二人が府庫で仕事をしているときはふらふらとどこかへ出歩いているようだった。 「これが工部《こうぶ》に、こっちが刑部《けいぶ》、こっちは礼部《れいぶ》で……これとこれとこれは門下省と中書省行きね。あーもう九寺と五監《ごかん》はこっちにまとめてあとで整理!」 「前年度の礼部予算残高はー、ええとまず高官の禄《ろく》内訳が……」  今日の秀麗は鬼神《きじん》のごとき形相で仕分けをし、影月は超速《ちょうそく》で算盤《そろばん》をはじいていた。  そうしている間も、彼らの足を引っ張りたくて仕方がない官吏は、しばしばやってくる。 「おお、遅《おそ》くまでご苦労なことよ。しかし国試に見事《みごと》状元と探花|及第《きゅうだい》したそなたらなら、手玉で遊んでいるようなものであろ。さ、これも頼《たの》むぞよ。麿《まろ》は忙しいのでな。今日中じゃぞ」  せっかく秀麗が仕分けした場所にわざと新たな書翰の山を落とし、過《あやま》ったふりをして影月の算盤《そろばん》を揺《ゆ》らし、今までの計算をすべてご破算にしていく。そんなことは毎日だった。  しかも無位|無冠《むかん》の二人はいつも官吏が来るたびに跪拝しなければならなかった。  官吏が帰ったあと、秀麗はぷるぷると拳《こぶし》を握《にぎ》りしめた。 「……あのマロっ。いっつも厠掃除《かわやそうじ》直後にわざと床汚《ゆかよご》していくのよッ。あの面《つら》と官位しっかり覚えてるわ。なーにが『麿』よ! 裏工作で今の官位にいるって噂《うわさ》、厠で聞いたわ!」 「確か、礼部の和《わ》官吏ですよねー。僕のとこにもよく沓磨《くつみが》きにきます」 「ていうか計算|大丈夫《だいじょうぶ》!? ものすごい桁《けた》やってたじゃない」 「あ、ちゃんとさっきまでの和算は覚えてますから。それより秀麗さんこそ仕分け」 「ふっ、人間は学習する生き物よ。仕分けしたもんにはきっちり印つけてあるから平気」  睡眠《すいみん》不足でやつれて隈《くま》だらけの目を見合わせ、にやりと笑う二人。  ひょっこり本棚《ほんだな》のうしろから顔を出した紅邵可は、幽鬼《ゆうき》のような愛娘《まなむすめ》と少年におそるおそる声をかけた。 「……あー、だ、大丈夫かい二人とも? お茶でも」 「引っ込んでて父様! 父様のお茶なんか飲んだら、残りの体力値一気にゼロで昇天《しょうてん》よ!」  ひと睨《にら》みされて、ひどい、と邵可は内心深く落ち込んだ。 「だいたいなんで帰らないの父様。静蘭が家で一人っきりじゃないの」 「私にも仕事が残っているんだよ。帰るに帰れなくてね」  父親の下手な嘘《うそ》に騙《だま》されたふりを決めこむことにして、秀麗はひとつ溜息《ためいき》をつくと、仕分けを再開した。邵可の優《やさ》しさが本当は嬉《うれ》しかった。  ——東の昊《そら》が藍色《あいいろ》に染まりはじめるころ、秀麗は充血《じゅうけつ》した目で立ちあがった。 「よし、あ、あとはこれを各省に届けるだけね」 「い、行ってらっしゃい秀麗さん」 「うん。影月君もその計算、もうすぐ終わりでしょ? そしたら私に構わず仮眠《かみん》とるのよ」 「でも、この量じゃ卯《う》の刻六つに間に合わないんじゃないでしょうか。僕手伝います」 「大丈夫。最短|距離《きょり》は頭に入ってるから。去年の夏だってさんざん駆《か》けずりまわっ……」  はっと口を押さえる。まずい。頭がぼーっとしているせいか余計なことまで口走りそうだ。 「と、とにかく、眠《ねむ》れるときに寝《ね》るのよ! あなた私と違《ちが》って成長期なんだから!」  そう言いつつ、ふらふらと府庫の扉《とびら》を開ける。そして目を見ひらいた。 「……また、置いてあるわ、影月くん」 「え? 今日もですか?」  まだ暗い扉の外に、茶器と握り飯が置かれていた。  初日から、毎日欠かさずいつのまにかこうして二人分の盆《ぼん》が並べられているのである。今日は握り飯だが、時に菓子《かし》であったり、点心であったりした。  味からして父では絶対ない。劉輝かとも思って聞いてみたが違うという。嫌《いや》がらせの一端《いったん》かと思い、最初は手をつけずにいたのだが、劉輝が妙に自信たっぷりに太鼓《たいこ》判《ばん》を押した。 『——これは、大丈夫だ。ありがたく食べておけばいい』  なので、以後秀麗と影月はその差し入れを素直《すなお》に腹におさめることにしたのであった。 「今日のお茶っ葉は龍泉茶…ね」 「それ、疲れをとるお茶ですよね」  疲れ切った顔を見合わせ、二人は少しく笑った。  今の二人の状況《じょうきょう》で、こんなさりげない誰かの優しさは本当に心に染《し》みた。 「戻《もど》ったら、食べるわ。お先どうぞ。じゃ、行くわね。いい、ちゃんと寝るのよ」  秀麗は大量の書翰を胸に、回廊を駆けはじめた。  ——誰もいなくなったのを確認《かくにん》すると、影月は何やら懐《ふところ》から真新しい手巾《てぬぐい》と液体の入った小瓶《こびん》をとりだし、手巾に振《ふ》りかけた。それで丁寧に両手をぬぐい、薄い手袋をはめる。そして秀麗がこれからもっていくはずの巻物やら書翰やらの山を注意深くさぐり、数十点を抜《ぬ》き取ると、別の紙幅《しふく》に写書しはじめた。写し終えると数枚をのぞきためらいなくもとの書翰を破り捨て、灯《あか》りにくべてしまう。その顔は、いつもの影月からは考えられないほど鬼気|迫《せま》るものがあった。  それがすむと今度は何やら別紙にさらさらと書きものをしはじめる。墨《すみ》が乾《かわ》くのを確かめてから、異常なほど小さく折りたたみ、そっと袷《あわせ》にしまう。  何事もなさそうに仕事を再開しはじめた影月は、書棚《しょだな》の陰で気配を殺していた邵可がその様子をうかがっていたことを知らなかった。 「——次は礼部ね」  書翰を抱えながら、秀麗はやや重い気分になる。他の省府でも嫌がらせや陰口《かげぐち》はしょっちゅうだが、特に礼部ではそれがあからさまなのだ。理由は礼部教導官の魯|官吏《かんり》しか思いうかばない。あの偏屈《へんくつ》で意地悪な指導官だ。 (ぜっっっったいあの人の嫌がらせだわ!)  長官である蔡|尚書《しょうしょ》はいい人なのに、なぜ部下がああなのか。行って帰ってくるだけで激しく精神を消耗《しょうもう》する部署ではあるが、秀麗は今日も気力を奮い起こして礼部に向かった。  礼部へ抜ける通路をいつものように曲がったときだった。  不意に秀麗の左|肩《かた》にやや重い衝撃《しょうげき》がきた。  面食《めんく》らって思わず歩みを止めると、続いていくつもの泥玉《どろだま》が飛んできた。反射的に書箱を胸に抱えこんで避《さ》けたが、数が多すぎて全部は避けきれず、何個か被弾《ひだん》してしまう。白の進士服が焦茶《こげちゃ》色のまだらに染まったのを見下ろして、秀麗はようやく事態を把握《はあく》した。 「当たった当たった」  いい歳《とし》した官吏《かんり》たちがにやにやと秀麗を見て笑う。実に楽しそうである。 (子供のいじめか————っっ) 「まったく女がちょろちょろと。目障《めざわ》りなんだよ」  またしても泥玉が飛ぶ。しかし頭脳労働の官吏たちと、今まで悪ガキたちを追いかけ回していた秀麗では、格が違う。秀麗は素早《すばや》く隅《すみ》に書箱を置くと、雪合戦の要領でひらりひらりとかわした。はっきりいってこんなひょろ玉、秀麗の相手ではない。 「避《よ》けんじゃねーよ」  暇《ひま》な官吏たちはムッとした。そしてやっきになって次々と投げつけはじめた。 (こ、こいつら馬鹿《ばか》じゃないの!)  秀麗は情けなくて叫《さけ》ぶ気力もなかった。これが国の頭脳といわれる官吏か。  柱に隠《かく》れ、呆《あき》れ果てて溜息をついたとき、急に泥玉が飛んでこなくなった。  妙な静寂《せいじゃく》に、秀麗は柱から注意深く顔を覗《のぞ》かせた。すると官吏たちが蒼白《そうはく》な顔で秀麗の後方を見ていた。つられて後ろを振り返ると、秀麗が曲がってきた角に絳攸が立っていた。その官服の胸当たりに見事に泥跡《どろあと》がついていた。 「……礼部では、妙《みょう》な遊びがはやっているようですね、蔡尚書」  絳攸は泥を落としながら、隣《となり》に連れだっていた礼部尚書を見る。いつもにこやかな礼部尚書も、さすがにこのときばかりは蒼白だった。 「な、なんということを——お前たち! い、いったいこれは——」  若い官吏たちはヒッと首をすくめた。 「……す、すみません……ろ、魯官吏が……」  絳攸がその名に反応した。蔡尚書も同じくその名に顔色を変えた。 「わ、私の監督《かんとく》が行き届かぬばかりに……礼部で替《か》えの官服を用意いたします!」 「いえ、それは結構です。——おや、噂をすれば魯官吏ではありませんか」  青年官吏たちのうしろから姿を現した魯官吏は、その場の状況を一瞥《いちべつ》した。そしてふと柱の陰に座ったままの秀麗に気づき、厳しい目を投げた。 「何をしている、紅進士。そんなところで休んでいる暇があるのか。それほど暇ならばここの回廊《かいろう》の掃除《そうじ》は君に任せることにしよう。朝礼までに清めておくように」  秀麗はぎょっとした。今だってこの馬鹿馬鹿《ばかばか》しい泥玉|攻撃《こうげき》のせいで余計な時間を食って、言いつけられた仕事が間に合いそうにないのに。 「そんな……」 「何か文句でも?」  絳攸の視線を痛いほど感じた。秀麗は歯を食いしばると、平伏《へいふく》し、了承《りょうしょう》した。  いつのまにか回廊に人が集まってきていた。魯官吏が厳しい顔でそれらを散らす。 「見せ物ではない。皆《みな》も早く持ち場へ着きなさい。ここは掃除を終えるまでの間、しばらく通行不可とする。よろしいですね、蔡尚書」  それだけいうと、魯官吏は蔡尚書と絳攸に一礼して立ち去ってしまった。青年官吏たちもこそこそと姿を消す。それをきっかけに、人の波が回廊からひいていく。  蔡尚書とともに礼部へ向かう絳攸は、秀麗を見もせずに通りすぎた。 『俺や楸瑛の助けは期待するな』  あのとき告げた言葉の通り、絳攸はまったくの他人として秀麗を扱《あつか》っていた。まるで顔を合わせたことさえないかのように。  誰《だれ》もいなくなると、秀麗はのろのろと顔を上げた。無茶苦茶に投げつけられた泥団子のおかげで、歩く場所もないほどぐちゃぐちゃだった。隅にのけておいた書箱が奇跡《きせき》的に無事だったのが唯一《ゆいいつ》の救いだ。 「……は…いくら私でも、これはちょっと時間がかかるわねぇ」  乾いた声で笑いながら、秀麗は掃除道具をとりに歩き出した。  身体《からだ》が重い。ぼんやりと視線を落とし、白い進士服についた乾きかけの泥を見たとき、不意に心が震《ふる》えた。秀麗は目を閉じ、深く息を吸った。 (泣かない。泣かないと決めた)  一人になると、心が弱くなる。たとえそばに誰もいなくても、秀麗は自分に泣くことを許さなかった。今は泣くのに費やす時間などない。泣くのはたぶん負けではないけれど、一度泣いたら心が折れる。  ぶつけられた泥玉は、女というだけで人格さえも根底から否定されるという証だった。秀麗という人格は意味がなく、ただ女という事実がどんな努力も打ち消す——それはひどく理不尽《りふじん》な現実。怒《いか》りに気を紛《まぎ》らわせなければ悲しみに支配されそうなほどつらく、悔《くや》しく、悲しい。  だけどここは泣き場所ではない。戦う場所だ。  ——顔を、上げなさい。  おまじないのように呟《つぶや》き、秀麗は顔を上げた。そしていつのまにいたのか、目の前に立った家人の姿に気づいた。 「……静蘭」  いつのまに——と思った。でも不思議ではなかった。いつだって静蘭は秀麗のそばにいてくれた。けれど、今は。 「だめ。行って。静蘭は私を甘やかすから」 「お嬢様《じょうさま》……」 「こればかりは誰にも甘えるわけにはいかないの。静蘭にも父様にも。だって私が決めて、私が望んで選んだ道なのよ。何があっても誰にも甘えられないわ」  硬くかすれた声だったけれど、秀麗はぎゅっと目をつぶってはっきり言った。 「私——幸せなのよ」  さんざん陰口《かげぐち》叩《たた》かれて、馬鹿にされて。午前は厠掃除《かわやそうじ》で、午後から明け方までは官吏たちに押しつけられた仕事や雑用の処理に追われて。ろくに眠《ねむ》ることもできず、毎日走り回ってぺこぺこ頭を下げてばかり。嫌《いや》なことも、泣きたくなることもしょっちゅう。それでも。  自分は、幸せなのだ。  一年前、後宮で何不自由のないお姫様《ひめさま》のようにかしずかれていた日々より遥《はる》かに。  叶《かな》わないと思っていた夢が叶った。一生着られないと思っていた進士服をまとい、女の身で外朝に入ることを許された。  手に入れたものがある。手にさえ入らなかった昔を思えば、つらいなどとは口が裂《さ》けても言えるはずがない。 「厠掃除だって、悪口だって、顔もろくろく上げられなくても、それがなんなの?——って、一年前の私ならきっと言うわ。望みの階《きざはし》を一歩あがった私が泣き言なんていえない。今までたくさん静蘭に愚痴《ぐち》こぼして泣きついてきたけど、今回はしない。静蘭に甘やかしてもらうわけにはいかないの。泣きたいときは一人で泣くわ。それが私の意地でもあるの」 「お嬢様……」  頬《ほお》にのばされた手を、秀麗は目をつぶって押しやった。 「だめ。目をつぶっている間に行って。今…結構不安定だから、さっき言ったことも忘れてぎゃーぎゃー泣いて愚痴言いそうだもの。私、静蘭には簡単に泣かされるから」  わずかに触《ふ》れた指先が、そっと引かれる気配がした。そして静かな溜息《ためいき》が一つ。 「……お嬢様」 「なに?」 「もう駄目《だめ》だと思ったら、私のところへきてください。お嬢様のためでなく——私のために」  最後の囁《ささや》きはびっくりするほど顔の近くで聞こえた。息のかかる感触《かんしょく》に、秀麗は思わず目を開けた。けれど静蘭の姿はもうどこにもなかった。 「——出ていってはなりません」  秀麗のもとへ足を踏《ふ》みだそうとした劉輝を、楸瑛が押さえこんだ。 「何のために絳攸に行かせたと思ってるんです!」  楸瑛は珍《めずら》しく声を荒《あら》げた。 「言ったでしょう。あなたが今守るべきは、誹謗《ひぼう》や中傷からではなく、彼女の誇《ほこ》りと、命の危険からだけです。秀麗|殿《どの》は自分で道を切りひらかねばならないんです。ここでつぶれるならそれまで。弱いままでは、この王宮で、たった一人の女|官吏《かんり》として生きてはいけません。秀麗殿もそれをよく知っています。彼女がああして歯を食いしばって頑張《がんば》って、静蘭の手さえとらなかったのに、王自ら庇《かば》えばすべて台無しでしょう!」  叱《しか》られた子供のように、劉輝はその綺麗《きれい》な顔を歪《ゆが》ませた。楸瑛は腕《うで》のいましめを緩《ゆる》めずに、諭《さと》すように言った。 「権力で守るのでは何の意味もない。彼女自身の力で乗り越《こ》えなければ、誰も彼女を認めません。だからこそ私も絳攸も、何を見ても聞いても決して手出ししなかった。秀麗殿の助けになれるとしたら、それはともに歩む同期の進士たちだけです」  劉輝は歯を食いしばった。——わかっている。そんなことは頭ではわかっているのに。 「あなたのなすべきことはほかにあるでしょう」 「——通達…を出す。今後女人官吏[#「女人官吏」に傍点]を卑女《はしため》のごとく扱う者は即刻《そっこく》官位|剥奪《はくだつ》及《およ》び全家産|没収《ぼっしゅう》、紫州から追放に処す——と。れっきとした一官吏を貶《おとし》める者には当然の処置だ。任官までに法制化する用意と、朝議にかける根回しを」 「はい」  ようやく楸瑛に腕をほどかれる。劉輝は痛みをこらえるように額を押さえた。 「……余は、ほんとうに何もできないのだな」 「ちゃんと、できることはしているでしょう? このバカな行いを事前に察知して、絳攸に報《しら》せることもできましたし。今はそれで充分《じゅうぶん》です。それに——おや」  顔を上げた楸瑛は、小さな状元が回廊《かいろう》から駆《か》けよって、秀麗のもとに辿《たど》り着くのを見た。 「秀麗さーん。府庫の書翰《しょかん》、全部届け終わりましたよー。え? そうですよ。秀麗さんが今もってる礼部への書翰で全部終わりですよ。寝《ね》てろって……だって秀麗さんだっていつも僕を手伝ってくれるじゃ——ど、どうしたんですか泥《どろ》だらけで!」  劉輝はぐっと手を握《にぎ》りこむと、楸瑛を振《ふ》り返った。 「秀麗は、良い官吏になると思うか」 「今の秀麗殿である限り、おそらく」 「そう。官吏の秀麗も、秀麗だ。余は、そのままの秀麗[#「そのままの秀麗」に傍点]に隣《となり》にいてほしい。可能だと思うか」  楸瑛は目を見ひらいた。その意味をすぐに察し、にやっと笑う。 「兄たちが聞いたら、面白いと言ったでしょうね。女人官吏もそうですが、それも史上例がありません。秀麗殿|次第《しだい》でしょうね。彼女が誰《だれ》もが認める大官になれば、あるいは」 「長いな」 「彼女と、あなた次第です」 「……待てる、かな」  心許《こころもと》なそうに呟いた劉輝に、楸瑛の顔がほころぶ。 「そうですね。秀麗殿の国試への気持ちを考えて、一年何もせずに待ちつづけたあなたなら、可能かもしれません」  そのまっすぐな優《やさ》しさがあるからこそ、清苑《せいえん》公子もこの末の公子を愛したのだろう。楸瑛でさえ、実の弟のように誇らしく愛しく思えるのだから。 (私の場合は、実の弟がかわいくないから、余計かも)  向こうの広場では、話のついたらしい二人の年少進士が、仲良く床《ゆか》掃除をはじめていた。それを物陰《ものかげ》から見守りながら、楸瑛は回廊の先にある礼部に目をやった。  魯官吏か——と、低く呟いて。      ***  辺りはすっかり明るくなっていた。  ゴーン、と鐘《かね》の音が鳴り響《ひび》くなか、秀麗と影月は回廊を全力|疾走《しっそう》していた。  最後の鐘が鳴り終わる寸前、二人は扉を蹴破《けやぶ》るようにして室へ飛びこんだ。 「こ、紅秀麗、ただいま参りました」 「杜…影月です。お…はようございます」  肩《かた》で息をする二人を、魯官吏は明け方の件など知らぬげにじろりと見下ろした。 「ぎりぎりか。仕事はすべて片づいたのだろうな」 「はい」 「おわり……ました」  その返事に、滅多《めった》に表情を変えない魯官吏の眉《まゆ》がやや上がった。二人はよろよろと進土たちのなかをかきわけていつもの席へ歩いていった。しかし途中《とちゅう》で誰かに腕をつかまれた。 「——魯官吏、この二人は連日の徹夜《てつや》で疲《つか》れが極限まで達しています。数刻、別室で仮眠《かみん》をとらせるべきだと思います」  凜《りん》とした声だった。秀麗も影月もその声の主をよく知っていた。碧《へき》珀明《はくめい》という名の彼は、会試では同舎、及第《きゅうだい》順位は秀麗の次の第四位及第。歳は十七、神童と名高い少年だった。 「午前中はどうせ厠掃除と沓磨《くつみが》きなのでしょう。数刻休ませても何ら問題ないと思いますが」  魯官吏は目を細めて少年を見た。 「碧進士、規定の出仕時刻というものかある」 「規定の出仕時刻?」  いかにも秀才《しゅうさい》・生真面目《きまじめ》派といった容貌《ようぼう》の少年は嘲笑《ちょうしょう》を浮《う》かべた。 「この二人の勤務時間は、規定をかなり超《こ》えています。帳尻《ちょうじり》は充分あっているのでは?」 「では君が、彼らの代わりに午前中、厠掃除と沓磨きをするかね」  ざわ、と進士たちがどよめいた。しかし少年はいささかもためらわなかった。 「いいでしょう。やります。ではこの二人を仮眠室へ連れて行きますので、失礼します」 「待ちなさい。昨日の報告がまだだ」 「完璧《かんぺき》です。これで報告を終わらせていただきます」  そうして少年は秀麗と影月の腕を抱《かか》え、引きずるようにして歩きはじめた。  室の空気は白々としている。誰かが「馬鹿《ばか》な奴《やつ》だ」と呟《つぶや》く声も聞こえた。それすらも頓着《とんちゃく》しない少年進士の横顔に、見上げた秀麗の胸にも熱いものがこみあげる。  まだ、頑張れる。  すべての嫌《いや》なことは、たった一つの出来事で帳消しになる。  影月を見ると、そっと笑っていた。秀麗は笑顔《えがお》を返すと、今度はしっかりと顔を上げた。      ***  時間はすこしばかり遡《さかのぽ》る。  真新しい官服に着替《きが》えた絳攸は、下吏たちに丁重に見送られて礼部を出た。  ふと、李《すもも》の匂《にお》いに足を止める。庭院《にわ》を見下ろすと、雪のような花がこぼれ咲《さ》いていた。 『もうよいではありませんか』  秀麗をかばうなりゆきとはいえ、礼部に寄ったおかげで、これ幸いとあの男は自分をとっつかまえてまくしたてた。 『あなたは紅|尚書《しょうしょ》のご養子ということですが、いまだに紅|姓《せい》をたまわっていらっしゃらない。紅尚書にはお子がいないというのに、それでもあなたを紅家に迎《むか》え入れる気はないということでしょう。ご存じでしょうが、あの方は気まくれで冷酷《れいこく》だ。いつまたあなたを身一つで放《ほう》りだしてもおかしくありません。どうですか、あなたはもう充分に恩を返したはずです。そろそろご自分の道を歩みはじめてもよろしいのではありませんか。私はあなたの才が惜《お》しい。もうあのことを怒《おこ》ってはおりませんし、娘《むすめ》との婚姻《こんいん》だとて結ばずとも結構。あなたさえそのおつもりなら、独立される際には、及《およ》ばずながらこの私が、力をお貸しいたしましょう……』  思い出すだけで、ひんやりと心が冷えた。  ——どうしようもなく下司《げす》な男だが、彼は確かに、絳攸の心の脆《もろ》い部分をそうと知らず突《つ》きくずした。  李の花が、はらりはらりと散っていく。まるで砕《くだ》けた心のかけらのように。  わかっていた。あの人は自分などいなくても何一つ困らない。変わらない。自分は、彼の愛する兄や姪《めい》のように、なにものにも代え難《がた》い存在ではない。  それでも、自分は。 「——絳攸、こんなところで、何を突っ立っている? 迷子になったら、近くの人に道を聞きなさいといつも言ってあるだろう」  その声で我に返った絳攸は、瞬時《しゅんじ》にいつも通りの顔をとりつくろった。 「李の花を見ていただけです。あなたこそどうなさったんです」  絳攸の表情を見た紅黎深はふと眉をひそめた。扇《おうぎ》の先で絳攸の顎《あご》を仰向《あおむ》ける。 「……どうかしたはお前のほうだろう、絳攸」  無表情や無関心を装《よそお》うのは、絳攸の得意とするところだった。けれどいつだって、たった一人だけには通じない。彼は喉《のど》に溜《た》まった息を吐いた。 「なんでも、ありま…せん」  呼吸半分|遅《おく》れただけのわずかの言葉からも、黎深は嘘《うそ》を見抜《みぬ》く。しかし普段《ふだん》なら絳攸の事情などお構いなしに追及《ついきゅう》する黎深が、今日はなぜかそれ以上|訊《き》いてこなかった。 「まあ、いい。……ああ、紅本家から貴陽に使いが出たらしい」  唐突《とうとつ》に話題が変わって、絳攸はきょとんとした。 「紅本家から、ですか?」  紅本家は紅州にあるが、黎深は邵可を追って紫州に出奔《しゅっぽん》してのち、ほとんど本邸《ほんてい》に帰らなかった。  もともと紅一族を蛇蝎《だかつ》のごとく嫌《きら》っていた黎深だが、自分の知らぬまに邵可が追い出されたことでついにその怒りも頂点に達した。いまでも紅本家と聞くだけで機嫌《きげん》が悪くなる。そんな彼がそれでも紅家宗主をやっているのは——。 「まさかとは思うが、お前の邸《やしき》にきたら即刻叩《そっこくたた》き出せ。どうせろくな用じゃない。さて、こんなところで油を売ってる暇《ひま》はない。きなさい。朝議に遅れる」  踵《きびす》を返した黎深を、絳攸は反射的に引き留めていた。 「黎深さま」 「なんだ」 「……わ、たしが、もし今、お側を離《はな》れて全国|津々《つつ》浦々《うらうら》点心修業にでたいといったらどうされます!?」  沈黙《ちんもく》が落ちた。絳攸自身、口にしてから激しく後悔《こうかい》した。 (……なんで点心修業)  黎深は絳攸に向き直ると、手にした扇をぱらりと開いた。 「お前が点心修業? まあ津々浦々の『津』までたどりつくのに半生を費《つい》やすとは思うが」 「…………………………ほっといてください」 「行きたいなら勝手に行けばいい。お前の人生だろう。私に訊くな」  どうでもいいかのように言うと、黎深は今度こそ歩き出した。  絳攸は必死で息を吸った。笑ったらいいのか、泣いてしまいたいのか、自分でもよくわからなかった。 [#改ページ]    第四章 休息の一日  青年はいつものように沓をとりあげた。ぴかぴかに磨かれた沓の先には、小さく折りたたまれた紙がそっとついている。  特別仕様に薄《うす》く漉《す》いた紙は、驚《おどろ》くほど大きくひらいた。なかの文字を追うごとに、青年の眉が寄っていく。ふと、中の一点に目を留めた。 「……明日が、休養日か」  何かを考えるように、彼は目を閉じた。さらりと流れた袖《そで》の色は、おさえた紅。  それは禁色《きんじき》の紫《むらさき》に次ぐ、七の準禁色のひとつ。まとう基本色に使えるのは、その色の名をもつ家系でも、さらに直系の者に限られていた。      *** 「紅秀麗です! こちらへの書翰《しょかん》、確かにお届けしましたッ」  夜も明けない暁時《あかとき》、少女の元気な声が響《ひび》く。この時刻、各省庁にいるのはたいがい宿直《とのい》役のごく少数の官吏《かんり》たちだった。  ドンドンドンと書翰を置いてぺこりと頭を下げると、引き絞《しぼ》った弓箭《ゆみや》のようにすっ飛んでいく秀麗を見て、宿直の官吏たちは顔を見合わせた。 「……今日も間に合ったな」 「毎日だろ。いつ寝《ね》てるんだ? まったく女だてらによくやるなぁ」  この間まで「女のくせに」「女ごときが」と蔑《さげす》んでいた者たちも、わずかに感心したような言葉を口にするようになっていた。 「府庫をのぞいてみたんだが、ものすごい書翰の量だったぞ。おまけに魯官吏にはいびられて同期にも悪口雑言いわれまくって。あれが毎日じゃ、男でも逃《に》げたくなるよ」 「ああ。他の進士たちはたいした仕事任されてるわけでもないのに、魯官吏に賄賂《わいろ》おくって仕事量減らしてもらってる奴《やつ》もいるらしいぜ。それに比べりゃ根性《こんじょう》あるよ、あの二人」 「状元と探花はだてじゃないな。仕事も正確で手抜《てぬ》きなし。かなり助かってる」  ひとりがポロリとこぼした本音に、他の男たちも一斉《いっせい》に頷《うなず》いた。 「だいたいやりすぎだろ礼部の奴ら。聞いたか? 泥《どろ》団子の一件。くだらねぇことするよな。ああいうの、吏部や戸部だったら即刻《そっこく》クビだぜ。そんな暇があるんなら仕事しろっての」 「あそこは上が上だからな。魯官吏は有望株いじめばっかりやってるし、春の除目《じもく》に向けて裏金動いてるって噂《うわさ》もあるし」 「そこいくと探花の紅進士、けっこういいよな。元気でニコニコしてるし。やっぱり職場に女の子がいるのってイイ! 潤《うるお》いだよ。和むよ。顔は十人並みだけど笑うとかわいいし」 「いえる。あのコが掃除《そうじ》してくれるようになってから、厩《かわや》も綺麗《きれい》で感激だな。それにどの厠も違《ちが》う花が飾《かざ》ってあって」 「そうそう、細やかな気配りってのがいいよ。書翰もかなり見やすく整理されててな。ああいうの男は気づかないよなー、大雑把《おおざっぱ》で適当で字もきたねぇし」 「ちっこいのも状元|及第《きゅうだい》鼻にかけないしな。謙虚《けんきょ》で丁寧《ていねい》で腰《こし》低いだろ、最初は嫌味《いやみ》かと思ったけど、ありゃ性格だな。あっというまに俺たち追い越《こ》すだろうけど、あのチビならいいな」  おまえ状元と自分比べんなよ、と脇《わき》から茶々が入って、その場がわっと沸《わ》いた。 「……結構いい感じかもな、今年度の上位進士。女官吏ってのもさ」  顔を見合わせて、官吏たちは笑った。      ***  貴陽花街は、眠《ねむ》らない夜の街。そして美しい女たちの街だった。 「女官吏など、まったくバカバカしい。世も末だ」  そのなかでもひときわ豪奢《ごうしゃ》な一室で、いつものように盃《さかずき》を傾《かたむ》けつつ初老の男は吐き捨てた。 「あら、お大尽《だいじん》様は、女がお嫌い?」  蠱惑《こわく》に満ちた艶《つや》やかな声とともに、男の盃に新たな酒が満たれる。男は酒を注《つ》いだ美女の腰を引き寄せて、酒で潤《うる》んだ赤ら顔を近づけた。 「嫌い? お前のような女なら文句などない。胡蝶——お前は本当に美しいのう。そなたのためなら、一晩で金百両積むこともまるで惜《お》しゅうない」 「ふふ、お口がお上手ですこと」 「女は、お前のように男に尽《つ》くし、愉《たの》しませ、家でじっとしておるべきだ。余計な智恵《ちえ》をつけて政事《まつりごと》に首を突っ込むなど、思い上がりも甚《はなは》だしいわ。……それにしてもまだしぶとく生きておるとは。まったく悪運だけは強いなど始末におえぬ。宮中での圧力も増やさねば」 「あら、怖《こわ》い。ねぇお大尽様、その小箱、この間なくしたといってらしたもの?」  脇息《きょうそく》の上に載《の》せた小さな細工箱を、大して興味もなさそうに胡蝶と呼ばれた妓女《ぎじょ》が眺《なが》める。  だらしなく伸《の》ばした鼻の下をあわてて元に戻《もど》して、男ははしかつめらしい顔をつくった。 「……あれ[#「あれ」に傍点]は、まだ見つかってはおらん」 「まあ。見事《みごと》な指輪でしたのに」 「胡蝶、女は宝飾《ほうしょく》に詳《くわ》しいだろう。それにいつだったかお前は、一度目にした宝石は二度と忘れぬと言っていたな。どうだ、できばえを見てくれぬか。一応本物を捜させてはおるが、見つからなかった場合のためにいくつかつくらせたのだ。これが一番近いと思う」 「構いませんことよ。それにしても、ずいぶんご執心《しゅうしん》でございますこと」  手のなかで小箱をもてあそびつつ、男は楽しげに胡蝶に教えた。 「ふふ、これは金の卵を産む鶏《にわとり》よ。本物はなくしたが、これを本物と信じこませさえすればいい。そうすれば私は大きく昇進《しょうしん》できる上に、大金も入ってくる。彩七家との約定だからな。そうすればお前も身請《みう》けできる。王族よりも贅沢《ぜいたく》な暮らしを一生させてやるぞ」  花街|随一《ずいいち》の妓女は、とろけるような微笑《びしょう》を浮《う》かべた。 「嬉《うれ》しいですこと。ふふ、今まで私を身請けできるような殿方《とのがた》はいらっしゃらなかったわ」 「なんならこの妓楼《ぎろう》ごと買い取ってもかまわん」  男はことりと盃を置いた。 「……そうだな。うまくいけばあのいまいましい女官吏を追い出すきっかけになるかもしれん。それにあの小娘の後見は紅黎深だ。あやつを失脚《しっきゃく》させる糸口になればしめたものだ。胡蝶、お前にも少々手伝ってもらうやもしれんぞ」 「お大尽様のよしなに」  艶麗《えんれい》な微笑を浮かべて、彼女は従順に頷いた。  深更《しんこう》——報告を受けた劉輝は、最低限の王様業を片づけるのも兼《か》ねて執務《しつむ》室に戻っていた。  室には絳攸と楸瑛だけがいた。 「ふむ。この指輪か」  劉輝は掌《てのひら》にのせた指輪を眺めまわした。 「……不完全だ。余が知っているのとは違う」  あっさり言ってのけた主に、藍楸瑛はわずかに会心の笑みをうかべる。 「ええ。おそらくは、茶家から送られてきた特徴《とくちょう》の覚え書きと、自分が見て記憶《きおく》しているものをつなぎあわせて、宝飾職人に依頼《いらい》したからだと思います。なくした『本物』のかわりにしようといくつかつくらせて、結局不用となった試作品のほうは、金目当ての配下がこっそり持ち出して闇市《やみいち》で売り払《はら》い、それが巡《めぐ》り巡って私のもとへきたと」 「……小物だな。配下一人|御《ぎょ》することもできないのか」 「茶|太保《たいほ》と比べるほうが間違《まちが》っています」  劉輝が掌で適当な扱《あつか》いをしているそれは、茶家当主の証たる指輪の贋作《がんさく》だった。台座を回すとそのまま茶家の当主印となるこれをなくしては、何人《なんぴと》も茶家当主を名乗ることはできない。  かつて茶太保がはめていたそれは、遺体となった彼の指から忽然《こつぜん》と消えていた。以後、茶本家はもちろん劉輝たちも血眼になって消えた当主印を捜《さが》していたのだが——。 「で、あの馬鹿《ばか》が見つけてあっさりなくしたという『本物』は、本当に『本物』だったのか[#「本当に『本物』だったのか」に傍点]? 大体、一年捜しつづけても見つからなかったのに、今さらなんで見つかるんだ。というか、あまりにも時機が良すぎる。気味が悪い」  絳攸は目を細めた。まるで誰《だれ》かが舞台《ぶたい》の後ろで操り糸をたぐっているかのような、不可思議な偶然の重なり。楸瑛もひとつ頷いた。 「燕青の情報によれば、茶家|本邸《ほんてい》にはないことは確からしい。まあ、そうでなければ今頃《いまごろ》とっくに誰かが当主の座についてるだろうからね。逆に言えば本物がないせいで、いまだに茶家はごたごたして、茶州政事にまで干渉《かんしょう》できなかったともいえるけど。こうなってみると指輪が行方《ゆくえ》不明で助かった。それさえも茶太保は見越《みこ》していたような気がするね」  劉輝は溜息《ためいき》をついた。 「……まだまだ及《およ》ばぬ、か」  一年前に本物の茶家の指輪を持っていたのは、まず間違いなく当主である茶太保だった。それが彼の死と前後して姿を消し、いまこの時期に狙《ねら》いすましたように再び現れる。  偶然《ぐうぜん》などであるはずがなかった。そしてあざやかにこんな真似をしてのけるのは、自分たちより遥《はる》かに長い経験と実績をもつあの困った老師たちしか考えられない。  そして、もう一つ。 「……春の除目《じもく》、か」  劉輝は苛立《いらだ》たしげに墨壺《すみつぼ》に筆をつっこんだ。初めて宮中人事に手を出すことで、彼にもようやく気づいたことがあった。 「楸瑛、お前の兄たちは九年前の乱について何か言ったことはなかったか」 「……朝廷が《ちょうてい》若返ったと、ひと言|呟《つぶや》いたのは耳にしましたね」 「さすがだな。とても藍州に隠居《いんきょ》した身とは思えぬ。余は今ごろ気づいたのに」  九年前の内乱は、当時の高位高官のほとんどを巻きこむという、国の根底を揺《ゆ》るがす大乱だった。そして朝廷に巣くっていた古狸《ふるだぬき》どもは、乱の終息と同時に残らず霄太師によって粛清《しゅくせい》された。そのときあまりに大量の官吏がいなくなったため、空位の官はいまだ多いが——要職には紅|尚書《しょうしょ》、黄尚書を筆頭に能力ある若手|官吏《かんり》の起用が実現した。 「絳攸、お前の侍郎《じろう》就任もその一つだろう。普通《ふつう》ならいくら能吏でもありえない若さだ。あの乱で——宮中に巣くう狐狸《こり》妖怪《ようかい》どもを追い払い、新風を吹《ふ》きこみ、朝廷全体を若返らせる。取り仕切ったのは、霄太師だ」  絳攸は腕《うで》を組んだ。その思慮《しりょ》深い顔は、彼もその可能性を考えたことがあると示していた。 「すべての狐狸が尻尾《しっぽ》を出すのを待ち、最後に残らずその尻尾を切り落とすために、拡大する一方のあの乱を、ただ黙《だま》って見守っていたと?」 「霄太師は父上に忠誠を尽くしていた。あれが王以外のために動いたときを余は知らぬ。だからこうも思うのだ。……父上の病は、本当であったのかと」  絳攸と楸瑛は息を呑《の》んだ。だが劉輝は、長く心にわだかまっていた疑問をあえて口にした。 「父上が真実、重い病でみまかられたことは余が一番よく知っている。だが初期の数年は……お会いしておらぬ」  先王が患《わずら》い、息を引き取るまで八年の歳月がかかった。八年だ。王位争いが起こるほどの深刻な病が、いくら最高の治療《ちりょう》を受けていたからといってそこまで保つものだろうか?  若きころ、数多《あまた》の戦乱をくぐりぬけ、彩雲国の王位についた先王。その手腕《しゅわん》をもって膿《う》んだ患部《かんぶ》を切り落とし、新たな時代を築いたと称《たた》えられる名君。  王になれと言った。霄|宰相《さいしょう》ではなく、自分に。強い意志のこもった声で。  かつて国を造りかえたその気概《きがい》が、いささかも衰《おとろ》えてはいなかったとしたら? 「そしてもう一つ気づいたことがある。九年前、茶太保は茶一族の暴走を懸命《けんめい》に抑《おさ》えていた」 「人は変わります」  ごく静かに楸瑛が応《こた》えた。 「だが、乱の終焉《しゅうえん》から数年しか経《た》っていない。なのに今さら権力を求めたのか?」 「……後悔《こうかい》しておいでですか」 「してない。余のとった措置《そち》に間違いはなかった。けれど——きちんと話をすればよかったと思う。茶太保の罪を問う前に、あれが何を考えていたのか、聞きたかった」  追っ手をかけたとき、生け捕《ど》りにできればそれも可能だったろうが、かの老臣は口をひらく前に亡骸《なきがら》で発見された。静蘭の口から語られた話で真相を知った気でいたが、本当にそれだけだったのだろうか。彼もまた、かつて霄太師とともに国造りを行った名大官だったのだ。  劉輝は溜息をついた。 「……未練だな。このところ茶州のほうにばかり気を向けているから」  自嘲《じちょう》めいたつぶやきに、絳攸と楸瑛の唇《くちびる》がゆるむ。  一年前に比べて、何と王らしくなったことか。統治する者の目で朝廷を——国を見るようになった。だからこそ今まで見えなかった部分が目に入ってきたのだ。  果たして本人は気づいているのだろうか? 劉輝はもう、一人の少女のために王であるのではない。その誇《ほこ》りは王のもの。彼ら二人をして、膝《ひざ》をつくにふさわしいと思えるほどの。  それでも、素直《すなお》でない側近たちはそんなことをおくびにも出さない。 「で、どうします? 本物のほう、捜しますか?」 「ああそうだな、捜してくれ」  賽《さい》を投げたのが霄太師ならば、本物が出回るはずもないのだが、万一ということがある。 「礼部のほうの——捕縛《ほばく》の時期は? 証拠《しょうこ》はそろってますが」 「いや、もう少し待つ。除目のときにつるし上げればいいだろう。今は、大切な時だ」  誰にとって大切な時なのか——楸瑛は微笑《びしょう》した。 「わかりました。まあ、あのテの男はほっとけばほっとくほど自分から墓穴《ぼけつ》掘《ほ》ってくれそうですし。じゃ、絳攸、しばらくじらしておいてくれ。いいかい、うっかりあいつの娘《むすめ》と結婚《けっこん》なんかしちゃ駄目《だめ》だよ」  返答に間があった。 「……絳攸?」 「あ? ああ、わかった」  上の空の絳攸に、楸瑛は目を細めた。      *** 「……うーん、なーんか、おかしいのよねー」  秀麗は相変わらずの書翰《しょかん》の山を整理しながら、ちょっとその手を止めてひとりごちた。  半月を過ぎたころから、少しずつ仕事の量が減ってきた。というか、どうでもいいような雑務を押しつける官吏が減ってきたというほうが正しいかもしれない。何だか、あの泥《どろ》団子事件以降官吏たちの当たりが優しくなり、今では嬉《うれ》しいことに挨拶《あいさつ》をしてくれる人も増えた。  そして秀麗自身も仕事に慣れてきたせいか、色々と考えることも出てきた。 「あ、僕のほうも、ちょっとヘンだなーって思うことがありますよ」  影月も算盤《そろばん》から顔を上げた。 「ちょっと、これ、見てください」 「あ、じゃあ影月くんもこれ見て」  お互《たが》い自分で見やすいようにつけていた冊子を交換《こうかん》する。  ——沈黙《ちんもく》が落ちた。 「……これ」 「同じ部署ですねー……」  秀麗は顎《あご》に手をやった。連日の疲労《ひろう》で、なんだか細くなった気がする。 「ね、魯官吏の課題、これにしよっか? 連名で。下《した》っ端《ぱ》がやるにはちょっと大それてる気もするけど、それこそ官位もまだの新米なんだし、ちょっとくらい間違《まちが》ってたって、別に問題にはならないと思うのよね」 「ああ、いいかもしれませんねー。何書いても自由って言ってましたもんね」  秀麗と影月は顔を見合わせて、いたずらっ子のようににやっと笑った。 「じゃ、さっそく」 「ええ、お仕事終わったあとにでもまとめましょーかー」 「……仕事終わったあとにも、まだ何かやるつもりなのか?」  呆《あき》れたような声がした。振《ふ》り返ると二人と同じ白の進士服を着た少年が立っている。 「珀《はく》さん! またきてくれたんですか」  過日、魯官吏に真っ向から反論した少年進士——碧珀明は、あれ以来、自分の仕事が終わったあと、府庫に手伝いにきてくれるようになった。  彼|曰《いわ》く「お前たちのためではない。お前たちが疲労でぶっ倒《たお》れたら他の者に迷惑《めいわく》がかかるからだ」。二人を仮眠《かみん》室まで引きずってく途中《とちゅう》も「ここまで意地を張る前に、ひと言いわないお前たちは大《おお》馬鹿《ばか》者だ」と憤慨《ふんがい》していた彼は、どうやらずっとイライラと助けを求める声がかかるのを待っていたらしい。国試中も秀麗たちと同舎だったから、口ではなんだかんだいいつつも本当は曲がったことの大嫌《だいきら》いな少年であることを知っている。 「ね、本当にいいのよ? だってあなた碧家のお坊《ぼっ》ちゃんじゃないのよ。後ろ盾《だて》も頭も文句なしで、私たちのなかでいちばんの将来有望株なのよ。わざわざ魯官吏の機嫌《きげん》を損ねなくたって……あれからあなたの仕事量も増えたっていうじゃないの」 「そうだな。僕が手伝うとお前たちにもとばっちりがくるしな」  仮眠室に連れて行かれた夜、珀明が府庫にきて文句を言いつつ仕事を手伝ってくれたおかげで、実に久しぶりに秀麗と影月は目の隈《くま》とおさらばできた。しかしその翌日。 『——私は君たちにこの仕事をやれといったのだ。まったく一人では何にもできないのかね。結局、役に立つのは厠掃除《かわやそうじ》と沓磨《くつみが》きということか。情けない状元と探花もいたものだ』  魯官吏に公衆の面前で延々と嫌味《いやみ》と叱責《しっせき》を並べ立てられた。うしろから他の進士たちの遠慮《えんりょ》無い嘲笑《ちょうしょう》も浴びまくって、はっきりいって最悪だった。のだが。 『私が勝手に手伝ったのです、魯官吏。ヒマで仕方なかったので』  ずいと珀明が進み出たのである。 『いい歳してやることなし昇進《しょうしん》打ち止め猿山《さるやま》の大将官吏にはなりたくないものですから』  ——冬の吹雪《ふぶき》もかくやというほど空気が凍《こお》ったのを秀麗は思い出す。  あのとき、たまたま通りかかった蔡礼部|尚書《しょうしょ》が、慌《あわ》てて間に入ってとりなしてくれなかったら、どうなっていたことやら。  蔡尚書はやりすぎだと魯官吏をたしなめ、珀明をかばってくれたのだが、結局珀明の仕事はその日から倍に増えた。しかしそれからも珀明は意地でも日暮れには仕事を終わらせ、毎日欠かさず府庫に手伝いに来、翌朝そろって嫌味を言われることが日課になっている。反骨精神ここに極《きわ》まれりといったところだ。 「私は別に構わないわ。今さら一つくらいとばっちりが増えたってたいしたことないし、手伝ってくれてるおかげで睡眠《すいみん》時間増えたし、……嬉《うれ》しーし」 「僕もですー。こういうのなら一緒《いっしょ》に怒《おこ》られても全然構いません」 「勘違《かんちが》いするな。これはもはや僕の意地なんだ!」  二人の脳天気な返答に、珀明は不愉快《ふゆかい》そうにドカッと椅子《いす》に座った。 「いいか、僕の目標は李絳攸様なんだ。七家外なのにあの若さで吏部《りぶ》侍郎《じろう》かつ主上のご側近。実力のみで最短|距離《きょり》の出世街道を突《つ》っ走ってきた朝廷随一《ちょうていずいいち》の才人。史上最年少|宰相《さいしょう》就任間違いなしの歩く頭脳。冷静|沈着《ちんちゃく》、才気縦横、深慮にして果断に富んだ『鉄壁《てっペき》の理性』——」  滔々《とうとう》と語る珀明と反対に、実物を知っている秀麗は黙《だま》りこんだ。出世|街道《かいどう》は最短距離だが現実街道ではしょっちゅう迷子《まいご》だとか、結構よくキレる『鉄壁の理性』だとか、秀麗の邸《やしき》にやってきてはご飯を食べて帰っていくとか——やはり言わないほうがいいだろう。それにしても。 「……ねえ、あなたが十六歳状元の絳攸様に敬意を表して一年国試受験|遅《おく》らせたって噂《うわさ》、本当だったの?」  勝手に書翰の処理をしはじめながら、珀明が不機嫌そうにじろりと秀麗を睨《にら》みつけた。 「本当じゃ悪いか。まあ結局、去年の会試は中止になったがな。はっきりいって今年十七で国試状元|及第《きゅうだい》する自信はあった。なのにうっかり一年遅らせたがために、蓋《ふた》を開けてみればたかだか十三の呑気《のんき》小動物に状元とられるわ、榜眼《ぼうげん》は進士式すっぽかした藍家の馬鹿にとられるわ、探花まで小娘にとられてこの僕が第四位だと!? まったくどうかしてる。よくも初手から計画を崩《くず》しまくってくれたな」 「……す、すいません……」  やけに堂々とした相手の責め口調に、小動物呼ばわりされた影月が思わず謝る。 「これ以上僕の計画を崩すわけにはいかない。あんな能なし進士どもに賄賂《わいろ》をもらって仕事量を軽くしてやるような昇進打ち止めじじいなんぞにへいこらしなくても、僕は実力で大官街道まっしぐらだ。ふ、絳攸様も同じ途《みち》を通られたというではないか。同じことが我が身に降りかかるのもこれぞ運命。僕は絶対|屈《くっ》さない。見てろ、あと何年かしたら奴《やつ》より昇進して鼻で笑ってこき使ってやる。——こらお前たち、手を動かせ。明日は七日に一度の休日なんだ。終わらなかったらまた休日出仕なんだぞ」  自分で言って怒りがたぎってきたのか、珀明は猛然《もうぜん》と書翰を片づけはじめた。 「今日も頑張《がんば》ってるね」  くすくすと笑いながら入ってきた楸瑛に、三人は飛び上がって跪拝《きはい》した。楸瑛は手にしていた大盆《おおぼん》を卓子《たくし》の隅《すみ》に置いた。その上にはいつものように茶器と菓子《かし》が載《の》っている。 「これ、扉脇《とびらわき》にあったよ。懐《なつ》かしいね。私たちの年にも同じことがあったんだ」 「え、そ、そうなんですか!? へええ……って、あら? お皿が三つに増えてる」 「もしかして珀さんのぶんじゃないですかー? このところ毎日きてくれてましたし」 「何? ノンキに菓子なぞ食ってる暇《ひま》なんかあるか! というか小動物、お前菓子より先に酒に慣れろ! この先官吏やってて呑《の》めないなんて言ってられないんだぞ。酒宴《しゅえん》でのあのていたらくはなんだ!」 「でででも呑めないものは呑めな」 「呑んで吐《は》いて慣れろ! 酒とはそういうもんだ!」 「でもでもそういう問題じゃないんですよぉおおお珀さん!」  府庫は日一日とにぎやかになっていった。  微笑《ほほえ》ましい光景に笑みを浮《う》かべながら、楸瑛は奥の室に入っていった。 「邵可様、失礼します」  子供たちの大騒《おおさわ》ぎを気にもとめず、せっせと仕事をしていた邵可は、声をかけられて驚《おどろ》いたように顔を上げた。 「おや藍将軍、どうか?」 「ええ。邵可様に、ひとつお頼《たの》みしたいことが」      ***  翌日の明け方——珀明のおかげで実にひと月ぶりに我が家へ帰ることができた秀麗は、徹夜《てつや》明けの緊張《きんちょう》が切れたのか、糸が切れたようにくずおれた。一緒に帰ってきた影月も、同様に腫れぼったい目をこすりつつバタリと床《ゆか》へ倒れる。  死んだように眠《ねむ》ってしまった二人をそれぞれ室へ運んだあと、邵可は苦笑した。 「無理もないね。ここひと月、心身ともに疲《つか》れ切っていたろうから」 「……そうですね」  お茶の用意をし終えた静蘭を、邵可は庭先に誘《さそ》った。 「うん。君も、本当にお茶をおいしく淹れられるようになったね」 「む、昔のことは忘れて下さい」  お茶を淹れてくれと言われ、茶葉を直接ごそっと湯飲みにいれてお湯を注いでもっていった過去を思いだし、静蘭は赤面した。この家の主たちは笑いながら全部呑んでくれたけれど。  春の庭院《にわ》は、ひと月前より華《はな》やかになっていた。李《すもも》の花は見事に満開で、微《かす》かな花の香《かお》りを運んでくる。 「君は、君の思うとおりになさい」  李花《りか》を見つめていた静蘭は、その言葉にぴくりと肩《かた》を震《ふる》わせた。隣《となり》に座る邵可に視線を移すと、穏《おだ》やかな笑顔にぶつかる。 「旦那《だんな》様……」 「君を拾って、妻と一緒に名前をつけたときから、私は、君を実の子のように思っているよ。親は、子供の重荷になるべきではない。だから私のことは何も心配いらない」  にっこりと笑う邵可に、静蘭の胸は詰《つ》まった。 「君が悩《なや》んでいるのはわかっているよ。好きなだけ悩みなさい。君なら最後にきちんと自分の思うような決断を下せるだろう。だから亡き妻も、君に秀麗を託《たく》したのだから」 「……いいえ。奥様は、私のために約束をくださったんです」  笑顔を、心を、幸せな時をくれた。家族をくれた。「静蘭」をくれた。そして彼がもっとも欲《ほっ》していた優《やさ》しい居場所までも。 『約束したな……静蘭? あの娘《こ》を守ると。妾《わらわ》がいなくなっても、その約束は有効じゃ。あの娘が一人で歩いていけるようになるその日まで。よいか——約束じゃ』  最後の最後まで笑っていた。そしてかすれた声で守るべき約束をくれたのだ。  ともすれば簡単に生を手放そうとしていた愚《おろ》かな自分を、この世に繋《つな》ぎとめるために。  自分の命になんの価値もないと思っていた。彼らとともに多くの優しい時を過ごしても、まだそう思い続けていた。そんな静蘭を、彼女は最期の時を割《さ》いてまで心配してくれた。  理由がなければ何もできなかった愚かな自分のために、あの女人《ひと》がくれた優しい束縛《そくばく》。  この邸《いえ》で、これから先もともに過ごしていいのだと——。 「私がお嬢様《じょうさま》を守っていたのではありません。そうすることで自分を守っていたんです。このお邸に——ずっと、いたかった。この時間がいつまでも続けばいいと」  けれど約束の時は近づいてきている。この手で守っていた少女は、自らの足で歩き出そうとしていた。  邵可は小さく苦笑《くしょう》した。 「言っただろう。君は私たちの家族だ。約束に縛《しば》られなくても、いつでもここに帰ってきていいんだよ。私の——そして秀麗のそばにいていいんだ」 「……旦那様、私は結構|我儘《わがまま》で、自分勝手なんです」 「うん、知ってるよ。そしてとても優しい」  さらりと言われ、静蘭はどう言葉を継《つ》げばいいのかわからなくなる。 「だから、君が悩んで出した答えは、決して間違っていない。もう一度言うよ。君は私たちのために生きるのではない。君自身のために生きるんだよ」  こと、と邵可は湯飲みを置いた。 「秀麗の配属が決まるまで、まだ時間はある。ゆっくりと考えなさい。背中は押してあげないよ。君は矜持《きょうじ》が高いから」  静蘭は頷《うなず》いた。こっくりと、まるで幼い子供のように。  午《ひる》過ぎ、秀麗と影月はふらふらと起き出した。 「……ね、寝《ね》過ぎちゃった……ごめん二人とも。ごはんつくれなくって……」 「お…はようございます……。人様のお室でこんなに爆睡《ばくすい》してしまって」 「よく眠れたようだね」 「お嬢様、影月くん、お腹《なか》すいてませんか? 軽くお茶にしましょう」  秀麗は静蘭のにこやかな顔に目をとめた。どこかすっきりした表情。このところ沈《しず》みがちだった静蘭の気分がわずかでも浮上《ふじょう》したらしいことに気づいて、秀麗はホッとする。——こういう時、本当に父は凄《すご》いと思う。  その邵可が、思いだしたといったふうにいきなりこんなことをいった。 「ああそうだ、あのね、実は午後からお客様がくる予定でね」 「ええ? 早く言ってよ父様! なんの用意もしてないじゃない! お掃除《そうじ》だって」  愕然《がくぜん》とする秀麗に、邵可がぱたぱたと顔の前で両手を横に振《ふ》る。 「あー、そういったことは気にしないと思うから、大丈夫《だいじょうぶ》。でね、二人だけで話したいから、すまないのだけれど三人ともこれから外に出ててくれるかい? 多忙《たぼう》な人だから、お夕飯の材料でも買ってくる間にお帰りになると思うし、少しの間だけだから」 「……父様と一対一ねぇ。お茶請《ちゃう》けは用意しとくけど、お茶は淹れちゃ駄目《だめ》よ。ああ、冷茶をつくって水差しに入れておくわ。あとは注《つ》ぐだけ。そこからしかお出ししちゃ駄目よ」  あまりの言われように、邵可はしゅんと小さくなった。そんなにまずいのかなぁなどと往生際《おうじょうぎわ》悪くぶつぶつと呟《つぶや》く。 「そうね、じゃあこれからどうしようかしら」  お茶を飲み干した時、門のほうで「ごめんくださーい」と声が聞こえた。  秀麗が出ると、顔なじみの飛脚《ひきゃく》のおじさんはぎょっと目をそらした。 「……文をお届けに参りました。ええと、二通あります」  押しつけるように文箱と書状を渡《わた》すと、逃《に》げるように出ていってしまう。以前は文を届けがてら陽気に色々な立ち話をしてくれたのに、及第《きゅうだい》してからこっち、まるでもう縁《えん》を切ったと言わんばかりの態度だった。秀麗は少しだけ気落ちしたが、無理やり気を取り直した。 「えーと、ひとつは私|宛《あて》で、もうひとつは早馬……あら、これこないだ影月くんがおうちにだしたものの返事じゃないの。ふふ、きっと喜ぶわね」  室に戻《もど》る途中《とちゅう》、歩きながら自分宛のやけに豪華《ごうか》な文箱《ふばこ》をひらいて中を見た。  文面を見——秀麗は今度こそ、こぼれんばかりの笑顔《えがお》を浮かべた。 「午後に行くとこ、決まったわ!」  そして秀麗は飛ぶように室へ戻っていったのだった。  うきうきと娘たちがでかけたあと、邵可は李の木の見える庭先で、お茶の用意をして待っていた。李花は風に揺られて、ひらひらと雪の花びらを散らしていた。  待つ時間は、それほど長くはなかった。 「失礼します」  誰《だれ》もいない邸《やしき》にやや戸惑《とまど》ったような顔をして入ってきたのは、絳攸だった。 「ようこそ。お仕事中なのに、呼び出して申し訳なかったね。さあ、座ってください」 「あ、はい……」  二人が座った場所は、この寂《さび》しい庭院で唯一華《ゆいいつはな》やかなところ、白い李花の咲く木を真正面から拝めるところだった。けれど絳攸はそっと李から視線を外した。 「珍《めずら》しいですね。邵可様が私を呼び出すなんて」 「あなたが、そんな顔をしていることよりは珍しくないと思いますよ」  絳攸は目を見ひらいた。——まさか、気づかれるとは。 「……邵可様」 「今この邸には誰もいませんよ。私はたいしたことはできないけれど、お話を聞くことくらいはできます。弟がまた君に何かしでかしたなら、特にね」  絳攸は苦笑した。  さやさやと、梢《こずえ》がゆれる。おぼつかない手つきで邵可がお茶を注ぐ音が耳に心地《ここち》いい。  ややあって、絳攸はポツリと呟いた。 「……もし、私が全国津々浦々点心修業にでたいといったらどうしますかと訊《き》いたんです」 「そうしたら?」 「勝手に行けと言われました」  邵可の手が止まった。次いで大きな溜息《ためいき》が一つ。  弟の間の悪さと口の悪さと無造作加減に、邵可はこめかみをおさえた。 (まったく、絳攸|殿《どの》に対してはいつもこうなのだから)  どこから話そうかと考え、邵可は口をひらいた。 「絳攸殿、あの李の木なのですが、今年|贈《おく》られてきたんです」 「……? ええ、聞きました。どなたからかは存じませんが」 「王が桜の木を贈って植えたと聞くやいなや、腕《うで》のいい庭師さんと一緒《いっしょ》にね。『この庭院でいちばん最初に咲くのが李でなかったら、たとえ兄上でも許しません』とかいうわけのわからない文つきで」  絳攸の目がわずかに見ひらかれた。邵可は苦笑した。 「昔から、あれは花でも実でも李《すもも》がいちばん好きでしたから」 「……李!? 庭院に李の木なんか一本もないです。実だって食べているところなんか」 「ひねくれてますからね。好き嫌《きら》いを素直に示す弟じゃありませんよ。ましてや『いちばん好き』なものは意地でも隠《かく》し通す性格ですから。知っているのは私くらいだと思いますよ」  寒暖に強く、どこでも根づき、花も実も根も薬用になる。そして雪のような花を咲かせる。 『綺麗《きれい》でおいしいだけでなく、根っこまで薬になるなんて、目に見えないところまで根性《こんじょう》が入っていると思いませんか? どんなところでも芽を出すしぶとさも気に入ってます』  甘いだけの実じゃないのも、私好みです——と笑った弟。 「……あれは、紅家を好いてはいません」  溜息とともに呟かれた言葉に、絳攸はハッとした。 「今まで私のことで色々ありましたからね。極《きわ》めつけはあれがいない間に一族会議で私をのけて当主にさせられてしまったことでしょう。私はこれ幸いと騒《さわ》ぎに乗じて紅州を出てしまったんですが……それを知った黎深は烈火《れっか》のごとく怒《おこ》りました。『このままでは一族|郎党皆殺《ろうとうみなごろ》しに』と青ざめた使者が、旅半ばの私たちを追っかけて飛んできたほどです。……それでも黎深は結局当主の座に就《つ》きました。あれほど倣岸《ごうがん》不遜《ふそん》、やりたい放題な弟でも、紅家のしがらみから抜《ぬ》け出せなかったんです」  とはいえ、やはり唯我《ゆいが》独尊な黎深である。そのあと邵可を追いかけて王都紫州へくると、いきなり国試を受けてさくっと及第し、なんと七家当主でありながら、紫州で宮仕えをすることに決めてしまった。そして、それはおそらく、黎深の紅一族に対する無言の抵抗《ていこう》でもあったのだろうと邵可は思う。 「……あなたには、縛られてほしくなかったのだと思います。七家や、家や、そこに渦巻《うずま》く醜《みにく》い闇《やみ》に。紅|姓《せい》を与《あた》えれば、あなたは否応《いやおう》なくそれらに巻きこまれていく。黎深でさえ抜けきることはできなかったのに、大切な人をどうしてそんなところへ道連れにできますか」  なぜ、邵可様は自分の悩《なや》みをこれほどまでに見抜いてしまうのだろう——と。 「あなたには好きな道を歩んでほしい。紅家になど縛《しば》られず、望む道をゆけると思ったからこそ、あえて李姓を与えたのだと思います。それに、黎深はきちんと印をつけているでしょう? 聡《さと》いあなたがわからないはずがありませんよ」  微《かす》かに、絳攸の喉《のど》が上下する。邵可は穏《おだ》やかに笑った。 「絳攸——絳は紅《くれない》よりもなお深い真紅《しんく》。あなたは自分の子だという、誇《ほこ》りの証《あかし》です。そして攸は水の流れる様を意味します。流水のように自由に思うがままに、何にも阻《はば》まれることなく好きなところへ——李絳攸とはそういう名です。弟ながら、良い名をつけたと思いますよ」  涼《すず》やかな風が霧《きり》を散らして、いまやっと視界が開けたような気がした。 『行きたいなら、勝手に行けばいい。お前の人生だろう』  自分が何をしても、そばからいなくなってもどうでもいいのだと。そう思った。けれど——あのときの言葉が、別の意味をもって輝《かがや》きはじめる。 「あれは、いつもはひと言どころでなく余計なことばかりいうのに、肝心《かんじん》なことは決して口にしません。ですから、あなたにはいつも苦労や心配ばかりかけて、本当に申し訳なく思っています。けれど忘れないでください。黎深はあなたを得て変わりました。あれは多分、子ができないのではなくつくるつもりがないのです。紅家への意趣《いしゅ》返《がえ》しなのでしょう」  だから邵可は、弟が子供を拾ったと聞いたとき、本当に驚《おどろ》いた。そもそもわずかな例外をのぞいて他人をそこらのぺんぺん草程度にしか認識《にんしき》していなかった弟が、子供を拾った? 世界の終わりかと思ったが——黎深のもとで成長していく絳攸を見るにつけ、天の配剤《はいざい》と思った。 「……あなたは『子』をもつつもりのなかったあれの考えを曲げさせたのですよ。それがどんな天変地異にも等しいことか、あなたにならわかるはずです。あなたは、黎深にとって、それほどの影響《えいきょう》力をもつ『養い子』なんですよ。あなたが状元及第したときのあれの誇らしげな顔といったら、兄の私でも見たことがなかったくらいです」  秀麗が及第したときのことを思い出す。黎深は心からの微笑《びしょう》を浮《う》かべていた。自分の時も本当に、あんな顔をしてくれたのだろうか——。  絳攸は湯飲みを握《にぎ》りしめた。 「気まぐれで拾われて、たとえもう一度捨てられたとしても、構わなかった。それまでは、そばにいて、少しでも、何かの、お役に……」  いつだって自分を振《ふ》り回して、面白がって。けれどいつだってそばにいさせてくれた。返しきれないほどたくさんのものを与えてくれた。初めて会ったとき、嫌《いや》だと意地を張ってその手を拒《こば》んでも、むりやり拾ってくれた。……それがどれほど嬉《うれ》しかったか。  たったそれだけで、絳攸の世界は一変した。  この人のために生きようと思った。もうお前なんかいらないと言われるまで、おそばにいよう。できることならお役に立って、喜んでもらえたら。  望む道などただ一つ。すべてはあの人のためだけに。 「いつまた捨てられても、今までおそばで過ごさせてもらっただけで、もう充分《じゅうぶん》だと思っていました。なのにあんな……他人のくだらない言葉に簡単に迷って、落ち込んで」 「なぜです? 大切な人の、大切な人でありたい。それはごく普通《ふつう》の感情でしょう」 「でも、あの人にだけは見返りを望みたくないんです。自分がそれ以上のものをもらっているのに、そんなことを思うのは傲慢《ごうまん》です」 「そうですか? 人と人との関係に一方通行はないと私は思いますよ。あなたが黎深に何かをもらったなら、黎深もあなたから何かをもらっています。あの性格からしてあげっぱなしというのはちょっとありえませんし。……むしろ黎深がかけている迷惑《めいわく》を思うと、差し引きしても比重は逆な気がしますが」  多分、と邵可は思う。むしろ[#「むしろ」に傍点]どころでなく、真実大切なものをもらっているのは黎深のほうだろう。かつての黎深を思えば、心からそう思う。 「できれば、あなたのほうがあれに愛想《あいそ》を尽《つ》かすまで、そばにいてやってくれると嬉しいですね。もちろん全国点心修業に出るなら止められませんが」 「……でません」 「だいぶ、いい顔色になりましたね。よかった。あなたは私にとっても大切な甥《おい》ですからね」  絳攸は不覚にもじーんとした。邵可様の甥……なんて良い響《ひび》きだ。 「ありがとうございます、邵可様。もう、大丈夫《だいじょうぶ》です」 「お礼なら、藍将軍に」 「……は?」 「あなたが悩んでいるようだから、話をきいてやってくれと。口が重いから多分|紅尚書《おとうと》がらみで、それだと私以外の誰《だれ》にも話さないだろうから、と。良い友人を持ちましたね」  鳥肌《とりはだ》が立った。——よりにもよってあいつに見抜かれていたとは! 「たっ、ただの腐《くさ》れ縁《えん》ですっっ。も、もう仕事に戻《もど》ります!」  あとで殴《なぐ》る絶対殴ると思いながら、絳攸は踵《きびす》を返しかけ、そしてふと足を止める。 「そうだ、ここにあの——どなたか紅家の方がいらっしゃいましたか?」 「いいえ?」 「……そうですか。それならいいんです」  では、と行きかけて、もう一度だけ振り返る。 「あ、あの……ずっと言おうと思っていたんですが、黎深様をもう少し気にかけてあげてください。府庫でも他人|行儀《ぎょうぎ》にされて、いつも落ち込んでるんです。あの人、本当に邵可様をお慕《した》いしているんです」  邵可は微笑んだ。 「知っていますよ。私にとっても、あれはかわいい弟ですから」  こういうところが邵可のすごいところだ。あの黎深に「かわいい」という形容詞をさらりとつけられるのは、彩雲国広しといえどこの人だけだろう。  あの黎深を鞠《まり》のように自由自在に転がせるただ一人の兄。絳攸が邵可をことのほか尊敬するのもこの点が一番大きい。日頃《ひごろ》自分が黎深に鞠のように転がされているだけに。 (……邵可様たちがその気になったら、この国はあっさりのっとられそうだな)  自分と黎深は邵可の手に、王は秀麗に握られ、参謀《さんぼう》には楸瑛でさえかなわない優秀《ゆうしゅう》な家人がついている。……怖《こわ》いのでそれ以上考えるのを絳攸はやめた。  邵可|邸《てい》を出た絳攸は、陽の眩《まぶ》しきに目をすがめる。見上げれば雲ひとつない、青い青い昊《そら》が広がっていた。  ——再び静かになった邸《やしき》で、さらり、と自分以外の衣《きぬ》ずれの音が聞こえても、邵可は驚かなかった。  庭院に向けて開け放たれた扉《とびら》から、無感情な声が邵可の足もとへ冷ややかに落ちる。 「……李絳攸は、なかなか立派な若者になったようですね」 「うん。とてもね。君も、よくきたね。いつくるかと待っていたんだよ。——玖琅《くろう》」  かつん——と沓《くつ》の音が石畳《いしだたみ》に響いた。  庭先から姿を現した三十前後の青年は、一目で大貴族とわかる風格を漂《ただよ》わせていた。目線一つで他を従えるような——辺りを払《はら》うその空気が違《ちが》う。身なりも物腰《ものごし》も、まさに貴人だった。  そしておさえてはいるが、基本色として使われているのは準|禁色《きんじき》の紅。 「紅家直系の邸に、まさか門番もいないあばらやがあるとは」  聞こえよがしに呟《つぶや》いて、青年はちらとも笑わず邵可を見た。 「お久しぶりです、邵兄上」  冷たい目と声で、彼は言った。      *** 「ようやく帰ってきたか。兄上のところで、色々楽しい思いをしてきたんだろう」  上司の嫌味《いやみ》も、今の絳攸には痛くもかゆくもない。 「ええ。とても」  黎深は養い子の顔をじっくり見つめ、扇《おうぎ》の向こうで小さく笑った。けれど口に出したのはまるで別の言葉だった。 「——玖琅が来た」  仕事を再開しようとしていた絳攸は、その名にぎょっと振り返った。 「玖琅様が!?」 「おや、その様子だとお前のところへもきていないようだな。とすると……やはり、兄上のところへ行ったか」  黎深の目が冷ややかさを増した。 「兄上を追い出しておきながら、よくも図々《ずうずう》しくあの邸に足を踏《ふ》み入れたものだ」 「待って下さい。玖琅様が直々にいらっしゃるということは、まさか紅州で何か」 「何も起こってないからきたんだろう。でなければ、あいつが本家をほったらかして出てくるわけがない」 「ではなんのために」  わずかに、黎深は沈黙《ちんもく》した。養い子をちらりと見る。 「あいつが動くのは昔から家のためだけだ。そのためにこの私さえはめようとした奴《やつ》だぞ」  忌々《いまいま》しげに黎深が背もたれに背を預ける。 「……玖琅——あいつがいなければとっくの昔に紅家なんか根絶やしにしていたものを」  現在紫州に出奔《しゅっぽん》している黎深に成り代わり、当主名代として一族を取り仕切っている紅玖琅はかなりの切れ者で、名実ともに黎深に次ぐ実力者だった。そして根本的な部分で黎深とよく似ていた。ただ一つ、そして決定的に違う、長兄に対する思いをのぞいて。  邵可を心から慕う黎深と、忌《い》み嫌《きら》う玖琅。ただこの一点で、彼らはまるで合わせ鏡のような存在となった。当主としてふさわしくないと邵可を追い出した玖琅と、その判断に烈火《れっか》のごとく怒《おこ》った黎深。玖琅はまるで紅家長子らしくない長兄に反発し、紅一族直系として紅本家を支える強い意志の持ち主となり、一方黎深は、敬愛する長兄を疎《うと》んじ駆逐《くちく》した紅家と紅一族を憎《にく》んでいた。  黎深が紅家当主の座に就いたのは、次兄こそ紅一族当主にふさわしいとした玖琅が様々な策を弄《ろう》してそのようにお膳立《ぜんだ》てしたためと、何より黎深が邵可本人に強く説得されたせいだ。 「まあ、いい。今の時期にあいつがきたというのは悪くはない。生意気にも色々動いているようだしな。——絳攸」 「はい」 「秀麗のいないたった一日で、ずいぶん城内の空気が変わったろう?」 「ええ。妙《みょう》な噂《うわさ》が横行しています。誰かが触《ふ》れ回っているようですね」  ふと黎深の目がわずかに細められる。微《かす》かに複数の足音が聞こえてきた。 「招かれざる客がきたようだ。あとはお前が何とかしておけ」 「……はい」  絳攸は落ち着き払って答えた。そのとき——制止する声を振《ふ》りきって武官が数人なだれ込んできた。黎深は視線一つで彼らの足を止めた。 「用件は?」  目の前に冷然と立つ貴人中の貴人に、下位武官たちはごくりと息を呑《の》んだ。 「……こ、国試不正|介入《かいにゅう》の疑惑《ぎわく》で、紅尚書、貴殿《きでん》の身柄《みがら》を一時的に拘束《こうそく》させていただく」  よくも、と絳攸の目が険しくなった。あさはかな企《たくら》みが丸見えだった。しかも——。  ——あの娘《むすめ》が必死でつかんだものを、自らの欲のために汚《けが》そうとするか——!? 「…………ハゲが」  黎深は聞いた人間すべてを凍死《とうし》させそうな呟きを吐きすてた。 「わかってはいたが、よくもまあこんな手で」  完全に萎縮《いしゅく》した下級武官たちに、黎深は氷の微笑《びしょう》を浮《う》かべてみせた。 「ああ、拘束か? 構わん。連れて行くがいい。拘束させてやろう。……その結果、貴様らの身に今後何が起ころうとも知らぬがな」      *** 「——主上、静蘭から、紫紋《しもん》の直文が届きました」  楸瑛の入室しざまの言葉に、劉輝は気色《けしき》ばんだ。 「あの印章は影月に渡《わた》した。影月はどうした」 「秀麗|殿《どの》と一緒《いっしょ》に、花街で監禁《かんきん》された模様です」 「……そなた行きつけの※《こう》[#「おんなへん+亘」]娥楼《がろう》か?」 「そうです」  剣《けん》を握《にぎ》りしめた劉輝を押しとどめるように、楸瑛は言を継《つ》いだ。 「また、現在十六衛の下部組織の一部が勝手に動いております」 「十六衛?」  十六衛は精鋭近衛《せいえいこのえ》の羽林《うりん》軍と違って、雑多な兵士たちの集まりである。上層部ともなれは統率《とうそつ》も自覚も実力もそろった者がいるが、下《した》っ端《ぱ》には力自慢《ちからじまん》なだけの破落戸《ごろつき》崩《くず》れも多い。ちなみに紅家の家人・静蘭もこの十六衛の中部組織に所属している。 「なんのために?」 「……紅黎深殿を捕縛《ほばく》するためのようで」  劉輝は絶句した。 「は? なぜそうなる!」 「今日一日で、ずいぶんと例の噂が広まったでしょう」 「ああ、秀麗が国試を不正に及第《きゅうだい》したのではないかというやつだな」  注目されている者の噂は興味本位であっというまに人口に膾炙《かいしゃ》する。特に——良く思われていない者ほど悪意ある噂は千里を巡《めぐ》るように広まる。宮中という場なら、なおさら。 「国試を司《つかさど》る礼部が噂の発信源のようですから、妙な信憑性《しんぴょうせい》があったんでしょうね。もともと女性|官吏《かんり》を快く思っていなかった官吏たちの間でくすぶっていたものが爆発《ばくはつ》したこともありますし、それをわざと煽《あお》っている者もおります。彼女を認めてくれる官吏もちゃんと出始めていますが、まだ少数派です。きっとあの男も今のうちにと思ったんでしょうねぇ。そして愚《おろ》かにも秀麗殿の後見であった黎深殿まで罪に問おうとしたと」  劉輝は頭を抱《かか》えた。 「……なんという馬鹿《ばか》なのだ。よりによって絳攸でなく黎深に手を出すとは」 「ところでここにもう一つ、藍家《うち》の情報網《じょうほうもう》に引っかかったものがあるんですが」 「……な、なんだ」 「現在、紅家名代・紅玖琅殿が貴陽に入都、邵可様のところへ行っているとかいないとか」  劉輝は真っ白になった。 「ここ最近、秀麗殿の身辺整理[#「身辺整理」に傍点]をしてくれていたのは、黎深殿でなく彼だったみたいですね」 「……………………」 「泣きそうな顔しないでください。ほら、だから最小限の被害《ひがい》にするべく、頑張《がんば》ってくださいといってるんです。あの黎深殿相手にギリギリまで粘《ねば》って、結局当主にしてしまった人ですからね。怒らせたら怖《こわ》いですよ」 「……も、もう少し奴が調子に乗ってくれれば、打つ手もあるのだが……」 「——安心しろ。調子に乗せた」  絳攸の声が割って入った。ずかずかと机案までくると、両手に抱えた書翰《しょかん》をどさりと置く。 「——紅秀麗の進士返上を求める連名書だそうだ。これからもぞくぞく届く」  絳攸は皮肉げな笑いを浮かべた。 「『紅進士がその正当なる及第を証明するまでは、進士と認めるわけにはいかない。明日正午にでも、彼女に対する査問会をひらくべきだ』だそうです。これがその書状」  劉輝は立ちあがった。 「——でかした絳攸! よく言わせて書かせた!!」 「絳攸、もし娘さんとの結婚《けっこん》を条件に出されていても、心配はいらないよ。この親友が窮地《きゅうち》を助けてちゃんと破談にしてあげるからね」 「んなもん出してないわ————っっっ」  劉輝は墨《すみ》と筆をとりだすと、猛然《もうぜん》と書をしたためはじめた。 「この勅書《ちょくしょ》をすぐに各高官に回せ。ついでに連名書とその書状もくっつけて回覧させろ。明日の正午に査問会だな? ひらいてやろうではないか」  ほとんど殴《なぐ》り書きで書き終えると、劉輝は剣をひっつかんで立ちあがった。 「——秀麗のところへは余が行く」  絳攸は釘《くぎ》を刺《さ》した。 「なるべく早く帰ってこい。……逃《に》げるなよ」 「……わ、わかった」 「恨《うら》むなら、あのカツラじじいを恨め」  劉輝は疲《つか》れ切ったように頷《うなず》いた。      ***  はらはらと、李《すもも》の花が散っていた。  白い花びらが雪のように舞《ま》って、くるくると翻《ひるがえ》りながら湯飲みに注がれたままの茶の上へと落ちた。 「私がくることを、予期していたようですが?」  その花びらに視線を落としたまま玖琅が訊《き》くと、邵可はあっさり頷いた。 「うん。影月くんから聞いていたから。君に助けてもらったって」  実は秀麗に拾われる前に、影月は玖琅に拾われていた。道ばたで寝《ね》ていた彼を軒《くるま》に乗せ、邸《やしき》に連れ帰って一晩の宿とご飯を食べさせてくれたのだと。出仕までいろとも言われたが、律儀《りちぎ》な影月は見知らぬ人にそこまで甘えられませんと言って出てきたらしい。その後、固辞も許さぬ秀麗にむりやり拾われたのであるが。 「酔《よ》って道に転がっていたあの少年が通行の邪魔《じゃま》だっただけです。それに状元でなければ助けませんでした」 「そうかな?」  花びらの沈《しず》んだ茶を淹れ直そうとした邵可の手を、玖琅が止める。 「私が淹れます。邵兄上の茶など飲めたものではないでしょうから」  冷ややかにそういうと、玖琅は兄を睨《にら》みつけた。 「——本当に、相変わらずですね。とろくて、何一つ満足にできやしない。紅家直系としての矜持《きょうじ》もなく、ただ本を読むだけ。官位をもらってもそれ以上に進む気もない。いくらけなされてもへらへら笑う。まったく、なぜあなたのような人が紅家長子として生まれたのか——」  きちんと二つ注がれた茶器に、邵可は目尻《めじり》を和《なご》ませる。 「——このひと月、秀麗のことを調べさせました」 「うん、それも聞いてる。紅玖琅という秀麗の叔父《おじ》を名乗る男性から、一宿一飯の恩と引き換《か》えに出仕後、秀麗の情報がほしいといわれたんですが、あげてもいいでしょうかって」  それだけではないことを、邵可は知っていた。及第してからというもの、女官吏を良く思わない高官たちから差し向けられていた破落戸たちの嫌《いや》がらせ。それを知った玖琅は即座《そくざ》に手を打ち、秀麗とこの邸を守るために徹底《てってい》的な守りを敷《し》いてくれた。でなければ、ひと月近く無人だった[#「無人だった」に傍点]この邸が、荒《あ》らされることなく済ませられるはずがなかったろう。  たとえ邵可を疎《うと》んじていても、それ以上に彼はまっすぐな青年だった。 「……まったくぺらぺらと」 「影月くんはちゃんとした子だから。で、どうだった? 秀麗も大きくなったろう」 「十人並みですね。庶民《しょみん》の娘と大差ない。——けれど国試及第は実力のようだ。中身はあなたより幾分《いくぶん》マシなようですね」  淡々《たんたん》と答えると、玖琅は冷ややかに兄を見た。 「兄上は、同じ城内にいるというのに、娘がどんな状況《じょうきょう》にいるか、本当にわかっているんですか? いえ、わかっているはずがないでしょうね。たとえわかっていたとしても、邵兄上に何かができるはずもありませんし」  邵可は答えることができずに、口をつぐんだ。 「私はあなたが嫌《きら》いです。あなたを追い出したことをいささかも後悔《こうかい》していません。黎兄上でなければ、この十余年を紅家は乗り切れなかった」 「ああ、私もそう思うよ」 「——それでもあなたは私たちの兄であり、紅家長子なんです」  はらりと舞《ま》い散る李の花を、玖琅は眺《なが》めた。 「そしてあなたの娘、この国初の女官吏は、紅家の長姫《ちょうき》です」 「玖琅——」 「今回は、ただの下見です。けれどいずれもらいます。次代の紅家のために。あの娘には李姫《りき》となっていただく」  その意味を、邵可は正確に理解していた。  玖琅は、あまりにもまっすぐな青年だった。たとえ兄二人が紅家をでても、自らが当主になろうとは考えない。血筋や順番にこだわっているわけではない。もし黎深が無能だったなら迷わず当主の座についただろうが、黎深の能力が高く、一族宗主にふさわしいと思ったがゆえに彼は次兄を当主に据《す》えるための策を次々と打った。彼は常に何が一番いいかを考える。そしてそうと決めたらどんな難事も——たとえあの黎深を怒《おこ》らせるとわかっていることも——いとわず実行し、布石を打っていく。  たとえば玖琅の子を次期当主にしても、誰《だれ》も反対はしないだろう。けれどやはり玖琅はそんなことは考えない。そして——邵可も、そこまで玖琅に背負わせることはできなかった。  それではあまりにも玖琅が不憫《ふびん》すぎた。玖琅がそのことに気づいていないぶん、尚更《なおさら》。  雪のように、李の花が咲《さ》いていた。  邵可が何かを言おうとし、口をつぐんだ。 (——この、気配は)  庭院《にわ》の木が揺《ゆ》れた。口をひらいたのは玖琅だった。 「何があった」 「——宗主様が一時宮城にて拘束《こうそく》された由」  紅家直属の『影《かげ》』の言葉にも、邵可と玖琅はいささかの動揺《どうよう》もしなかった。 「——理由は?」 「邵可様ご息女、秀麗|姫《ひめ》の国試及第に関して不正|行為《こうい》をなされたとのこと」  黎深の兄弟二人はヘンな顔をした。 「馬鹿《ばか》め。黎兄上がバレるような不正をするものか。誰が仕掛《しか》けた。いや——兄上が見抜《みぬ》いてないはずがないな。そうか、わざとつかまったか」  玖琅はちらりと邵可を見た。 「……いいだろう、私も潮時だと思っていた。紅一族——しかも紅本家を敵に回すとどうなるか、目にもの見せてやる。相手の情報|及《およ》び今後の状況を逐一《ちくいち》報告しろ」 「是《ぜ》。そして秀麗姫なのですが——杜影月とともに花街|※《こう》[#「おんなへん+亘」]娥楼にて監禁《かんきん》されております。※《し》[#「くさかんむり/此」]静蘭はただいま宮城に。また、城内にて秀麗姫の進士返上の騒《さわ》ぎが起こり、明日正午に姫に対する査問がひらかれることが決定したようです」  なるほど、と玖琅は凄絶《せいぜつ》に笑った。 「その査問に出さないために、花街に監禁したわけか」  邵可は額をおさえた。  秀麗と影月の身を案じたわけではない。今回ばかりはなんの心配もないとわかっている。王も気づいているし、何より黎深を二度も怒らせたのだ。しかも今回は玖琅までいる。 (……あの男も、なんて間の悪い……)  多分、今度は公衆の面前で頭髪《とうはつ》不毛を暴露《ばくろ》されるくらいではすまないだろう。邵可の切れすぎる弟たちとまともにやり合えるのは、せいぜい霄太師か藍家の当主たちぐらいだ。そもそもバレずにコトを運んでいると信じ込んでいることからして、愚《おろ》かとしか言いようがなかったが、まさかここまでとは。 「邵兄上。あなたとて窓際とはいえ高官です。なんの取り柄《え》がなくとも、これを宮城にいる絳攸まで届けるくらいはできますね」  玖琅が袷《あわせ》からとりだした小箱を見て、邵可は思わず言葉をのみこんだ。 「酔っぱらった小状元を拾った時、酒代を立て替《か》えるのと引き換えにくれましてね。これだけで立派な証拠《しょうこ》になるでしょう。破落戸たちの雇《やと》い主はすでに調査済みです。紅家当主代印を押した書状をつけますから、立派な証明力を発揮するはずです」  玖琅がもっていたのでは、どうあっても見つからなかったわけである。 「……玖琅、君の見立てでは、この指輪の真贋《しんがん》は?」 「かなり良くできています。もとの指輪を知り尽くしている者でなければ、ここまでのものはつくれません。茶本家も騙《だま》されるでしょうね。あの一族の中で本物を見極《みきわ》められるのは、亡《な》き茶鴛洵|殿《どの》と、大奥方の縹英姫《ひょうえいき》殿くらいでしょう。——まったく立派な贋物《にせもの》です」  からまった糸が難なくほどかれていく、そんな感触《かんしょく》があった。  敵があまりにも小物な一方、こっちはといえば粒《つぶ》ぞろいの大物ばかりときている。どうやら今回ばかりは自分や珠翠《しゅすい》の出る幕などないようだ、と邵可はひそかに溜息《ためいき》をついた。      ***  紫紋《しもん》の直文を劉輝に届けたのち、静蘭は足早に、羽林《うりん》軍の武官宿舎のほうへ歩いていった。  一番奥の室へ向かう。顔なじみの衛士に取り次ぎを頼《たの》むと、すぐに通された。 「よぉ、よーやくきたか」  右羽林軍大将軍である白雷炎《はくらいえん》はにやりと笑った。 「お嬢ちゃんの件が騒ぎになったときから、そろそろ来ると思ってたぜ。——いい面《つら》してやがる。覚悟《かくご》、決めたな?」  静蘭はあきらめたように目を閉じた。 「白大将軍」 「おう」 「お願いがあります」 「わーってる。きいてやるよ、その願い。——何が欲しい」 「剣を」  静蘭は静かに答えた。  今腰に佩《は》いているようななまくら[#「なまくら」に傍点]ではなく。真に人を斬るための剣を佩ける——立場と地位と権力を。  視線だけでそう告げた静蘭に、白大将軍は笑った。 [#改ページ]    第五章 華麗なる終焉の序曲  貴陽花街でも一、二を争う老舗《しにせ》※《こう》[#「おんなへん+亘」]娥楼は、王家の離宮《りきゅう》もかくやと思わせる豪奢《ごうしゃ》な造りをしていた。そのなかでも頂点に立つ名妓《めいぎ》・胡蝶が、開いた扉《とびら》の向こうから姿をあらわした。 「良くいらしたこと。秀麗ちゃん、小さなぼーや」  その微笑《ほほえ》みひとつを見るために財すべてをなげうつ者さえ珍《めずら》しくない、胡蝶の微笑み。 「ずいぶん、お久しぶりね。及第《きゅうだい》以来、かしら? 文《ふみ》を見てくれたようで嬉《うれ》しいわ」  秀麗は宮女にもまさる艶麗《えんれい》かつ教養高きその美女を知っていた。いや、知っていたという言葉では到底《とうてい》足りない。  秀麗が引き受けてきた数多くの賃仕事の中でも、花街は別格だった。母が亡くなって、お金も底をついて、お金が稼《かせ》げるという噂《うわさ》一つで、秀麗は花街へ出かけた。秀麗はまだ十にもなっておらず、妓女の何たるかも知らず、そのまま売り飛ばされてもおかしくなかったところを、室の掃除《そうじ》やら帳簿《ちょうぼ》付けやら、備品の買い付けなど、午の仕事を世話してくれたのがこの※《こう》[#「おんなへん+亘」]娥楼——そしてとりなしてくれたのは十代ですでに名妓としての頭角を現していた胡蝶だった。  それから十年近く、秀麗は毎日のように各|妓楼《ぎろう》へ出かけて仕事をしてきた。特に——胡蝶のいる※《こう》[#「おんなへん+亘」]娥楼で。  いちばん割が良かったこともある。けれどそれだけではない。強く美しく優《やさ》しい、女としての誇《ほこ》りに満ちた胡蝶が秀麗は大好きだったからだ。  だから久方ぶりに会いにこないかという文をもらって、飛び上がらんばかりに秀麗は嬉しかった。けれど。微笑む胡蝶に、秀麗は違和《いわ》感《かん》を覚えた。……いつもと、どこか、違《ちが》う——と。 「胡蝶|妓《ねえ》さ——?」  不意に、胡蝶のうしろから人相の悪い破落戸《ごろつき》がぞろりと現れた。  瞠目《どうもく》する秀麗とは反対に、美女はくすりと破落戸たちを見た。 「ほら、この娘《こ》はここで長年賃仕事をして、ずいぶんお世話をしてあげたの。何様のつもりかしらないけれど、官吏《かんり》様になった途端《とたん》、音《おと》沙汰《さた》なくなってしまったけれど」  秀麗は凍《こお》りついた。不意に、よそよそしくなってしまった街の人々を思い出す。  ——胡蝶妓さんも——?  けれど胡蝶は、国試を受ける秀麗の背中を押してくれた。笑って、頑張《がんば》っておいでと言ってくれた。及第したあとだって——。  そして胡蝶が及第のお祝いを言ってくれたときを思い出す。おめでとうと言ってくれたけれど、その直後、胡蝶は少し困ったような顔で目をそらした。  何が、変わったというのだろう。胡蝶が、こんな風に自分に対するほど、悪いことをしたのだろうか。官吏になったら、もう同じ存在ではないのだろうか。  あまりに衝撃《しょうげき》を受けすぎて、秀麗はそれ以上何も考えられなかった。  胡蝶は、かつて秀麗が見たことのない笑みを浮《う》かべた。 「しばらく、ここに滞在《たいざい》してちょうだい。それをお望みのかたがいらっしゃるの。断る権限はなくってよ。無位|無冠《むかん》のあなたたちが逆らえるような方じゃないわ。それに、大切なお父様に何か良くないことが起こってほしくはないでしょう?」  青ざめた顔で、秀麗は拳《こぶし》を握《にぎ》りしめた。 「わか——りました」  この格式高い老舗の用心棒にしては下卑《げひ》た男たちが、一歩|踏《ふ》みだした秀麗の腕《うで》を掴《つか》んで奥へ連れていこうとする。 「お嬢様《じょうさま》!!」  思わず剣《けん》を抜《ぬ》きかけた静蘭の手の甲《こう》を、鋭《するど》く空を切った何かがしたたかに打つ。  扇《おうぎ》だった。あやまたず投げつけられたそれは、軽い音をたてて床《ゆか》に落ちた。呆然《ぼうぜん》とする静蘭に、胡蝶は嘲《あざけ》りの笑《え》みを浮《う》かべた。 「あなたは、お帰りなさい。ご招待したのは、小さなお二人だけ」  気色《けしき》ばんで静蘭を囲んだ破落戸たちに気づき、秀麗がかぶりを振《ふ》る。 「お嬢様……」  唇《くちびる》を噛《か》んだ静蘭の掌《てのひら》に、後ろからそっと押しつけられたものがあった。 「——静蘭さん」  かすかな驚《おどろ》きを隠《かく》して前を見据《みす》えたままの静蘭に、影月は硬い声で囁《ささや》いた。 「これ、陛下からお預かりしました。よろしければ使ってください。なんだかあちらの皆《みな》さんは僕のことも連れて行きたいみたいですし、ここじゃ使えなさそうですから」  薄布《うすぬの》ごしにそれを探《さぐ》って、静蘭は手渡《てわた》されたものの正体を知った。思わず振り返った静蘭に、影月が笑ってみせる。 「あの僕、全然|頼《たよ》りにならないですけど、足手まといにならないように頑張りますからー」  自らの無力をかみしめるように、静蘭は包みを握りしめた。 「——わかった。お嬢様を頼む」 「はい」  紫氏の紋印。劉輝はこれを自分にではなく、この少年に託《たく》したのだ。今の静蘭には、秀麗を正面切って守る力はないのだと。——その判断は正しい。  さすがに表情をこわばらせて、影月も男たちに引きずられていく。 「ほら、あなたは早くお帰りなさい」  秀麗と影月が破落戸たちに妓楼の中に引きずり込まれる様子を睨《ね》めつけるように見ていた静蘭に向けて、美貌《びぼう》の妓女は艶冶《えんや》に笑った。 「ずいぶん怖《こわ》いお顔ね。でも、無理にいらせられると、それこそあの子たちが怖い思いをしてよ。——あなたが、藍様みたいに権力のある武官さんだったなら、話は別だったでしょうけれど。本当に残念ね」  静蘭、と彼女は溜息のような声で囁いた。 「今のままでは、大切なものは守れなくってよ」  細い三日月を思わせる艶《つや》やかな唇。彼女は静粛の肩《かた》をトン、と押し、扉を閉めた。  静蘭はわずかに目を閉じた。  そして今までとはうってかわった厳しい表情をし——白大将軍のもとへ赴《おもむ》くべく踵《きびす》を返したのだった。      ***  秀麗たちは最上階の一室に放りこまれた。長年この妓楼で賃仕事をしてきた秀麗は、この室が誰《だれ》のものであるか無論知っている。 「……こんなことになるなんて。ごめん影月くん、一緒《いっしょ》に連れてきちゃって」 「いいえー。どっちにしろ連れてこられたような感じですし、気にしないでください。それより秀麗さん、大丈夫《だいじょうぶ》ですか? ひどい顔色です」  秀麗は笑おうとして、失敗した。溜息《ためいき》が漏《も》れる。 「……私は、何も変わってないんだけどなぁ」  ポツリと呟《つぶや》いた秀麗に、影月の顔が曇《くも》った。 「でも、みんなの気持ちも……わからなくもないの。そりゃ、へこまないって言ったら嘘《うそ》だけど、仕方ないわ。こういう事態を想定して心の準備をしてなかった私が悪いのよ」  ——何も変わらないと思っていた。国試に及第しようが、城にあがろうが。けれど違った。  秀麗自身は変わっていなくても、彼らが見ているのは別の人になってしまったのだ。ただ肩書きひとつで。 「みなさん、ちょっと戸惑《とまど》ってらっしゃるだけです」  秀麗は少し笑っただけで、答えは返さなかった。話を逸《そ》らすように別の話題を振る。 「……ね、影月くんは、なんで官吏になろうと思ったの?」  わずか十三で状元及第を果たした、彼の強い思いは何だろう。きっと、情けなくも揺《ゆ》れている自分の心とは比べものにならないほど確固たる意志が——。 「え? 僕ですか? お金をたくさんもらえて偉《えら》くなれると思ったからですー」 「………………へ?」  影月は膝《ひざ》を抱《かか》えて、少し目を伏《ふ》せた。 「僕、本当はお医者になりたかったんです。昔、死にかけたところを堂主様に助けてもらってから、僕も誰かをこんな風に助けられたらって。でも、お医者って貧乏《びんぼう》なんですよねー」 「え、いや、まあ、そ、そうね」 「堂主様も貧乏なんです。いつも誰かを助けていて、もらうお金よりつくるお薬で出てくほうが多くって。もともとほとんどお金とらない人ですしー。だからお金には良く泣かされてました。食べるものがないとかは、別にいいんです。ただお金がないせいで、頼ってきた人を助けることもできないとき、すごくすごくつらい顔をして——陰《かげ》で泣くんです。いつもは全然お金に頓着《とんちゃく》しないのに、そのときだけはもっとお金があったら——って」 「…………」 「お金がすべてじゃありませんけど、あったほうがたくさんのことができます。いいお薬をたくさんつくれるし、新しい治療《ちりょう》法や新薬開発もできます。もともと、お医者って認められてないでしょう? 自称仙人《じしょうせんにん》さんや妖術士《ようじゅつし》さんとかのつくる変な薬を真に受けて、たくさんのお金を払《はら》って泣く人があとを絶ちません。各地で高名なお医者さんの噂《うわさ》は良く聞きますけれど、その方たちが確立した多くの素晴《すば》らしい医術法はほとんど他のお医者さんに伝わりません。お金持ちの人がお抱えにして外秘にしてしまうこともままあるみたいですし。——だから僕、お医者じゃなくて官吏になろうと思ったんです」  にっこりと、影月は笑った。秀麗は初めて、十三歳状元としての影月を見たと思った。 「今でも、お医者になりたいとは思ってますけど、でもそれより、もっとお金と権力をもとうって思ったんです。僕、堂主様がしくしく泣くの、見たくないんです。官吏になったら、お金もたくさん入るし、できることも増えます。偉くなったら公権力も使える。とりあえずやれること全部やって、それでまだ時間があったらお医者になろうと思って。人生は短いですから、なるべく早くって思って国試を受けたんです。何年もちょこちょこ貯めて、ご近所の皆さんのご厚意《こうい》もあってようやく一回分の受験料に達して。ほんと、今回受かって良かったですー」  ——秀麗は思い出した。自分の望み。遙《はる》か見据えたその先を。  簡単に目先のことに惑《まど》わされる自分を秀麗は情けなく思う。  頭をひとつ振ると、秀麗は顔を上げた。凜《りん》としたその顔に、影月はちょっと目を瞠《みは》った。 「ありがとう、影月くん」 「え?」  そのとき、扉《とびら》がひらいた。二人が身構えるひまもなく、人相の悪い破落戸《ごろつき》どもがどやどやと入ってくる。 「こっちのちびっこいガキか。旦那《だんな》が小箱の在処《ありか》を白状させろっておっしゃるんは」 「確か酒が一滴《いってき》も呑《の》めねぇって噂の稀少《きしょう》生物だよな」 「なら簡単だ。酒呑ませて吐かせりゃいい」  影月の顔色が変わったのを見て、男たちは薄ら笑いを浮《う》かべた。 「酒が呑めるようにしてやるっていってんだよ。感謝しろよな。——おらこい。ここにゃイイ洒そろってるぜ? 小僧《こぞう》にゃ一生呑めねーようなのがよ」 「人生変えてやるよ。酒に弱いってんなら、その前に人生終わるかもしれねーけどな」 「小娘《こむすめ》の方はともかく、ガキに関しちゃあ箱のことだけしか言われてねぇしな。お前がもちっと要領よく誰かお偉いさんの後見でも捕《つか》まえてりゃ、助けろってことになったろうケドよ。なにしろうちの旦那は権力にからきしよえーからな。もしくはおとなしく婿《むこ》になってりゃな」 「ま、たしかにあんな女じゃ嫁《よめ》にもらう気になれねーのもわかるけどよ。三十路《みそじ》の父親似だしな。旦那も誰彼《だれかれ》構わず縁談《えんだん》もちかけてんだよな。でも金はうなるほどあるんだぜぇ。持参金目当てでも良かったじゃねえか。馬鹿《ばか》だなぁ小僧」  腕《うで》をねじり上げられても、影月ははっきりといった。 「何も知らずに公《おおやけ》の場で断ってしまったことをお怒《いか》りなら、謝ります。でも」 「んなこたオレたちにゃどーでもいいんだよ」  男たちが力ずくで別室に連れて行こうとする。秀麗は思わず足を踏《ふ》みだした。 「え、影月くん!」  室から消えた影月を追いかけようとした秀麗を、別の男がぐいと押さえて引き留める。 「おじょーちゃんはここで大人しくしてな」 「一人でつまんねーなら、相手してやるぜ? ここはそーゆーとこだしよ」  男たちはにたにたといやらしい笑《え》みを浮かべた。 「なんだお前、こんなのが趣味《しゅみ》かぁ?」 「たまにはいいじゃねーの」  交《か》わされる会話にぎょっとする。さすがにうとい秀麗でも、会話の意味するところはわかった。けれどまだ一縷《いちる》の望みはあった。  そう。秀麗の考えが正しければ、おそらくは——。  伸《の》ばされた手を払いのけ、秀麗は目の前の男を睨《にら》み上げた。破落戸は口笛を吹《ふ》いた。 「泣きもしねぇ。頑張《がんば》るなぁ、オレそーいう女好きだぜ。顔は十人並みだし胸もねーけど、その目は結構そそるじゃん」  ——十人並み胸なしで悪かったわね。と内心キレたが、さすがに言い返す度胸も余裕《よゆう》もない。 「初の女|官吏《かんり》さんとやったとなりゃあ、歴史に残るかもなぁ」  笑いながら伸ばされた手から、秀麗は反射的に飛び退いた。手に触《ふ》れたものを手当たり次第《しだい》に投げつける。 (ああっ、この壺《つぼ》一つで家が建つのにぃいいいい)  こんな時でもしっかり計算してしまう自分が悲しい。それでもそれは、まだ秀麗に微《かす》かな望みが残っている証拠《しょうこ》でもあった。 「アブねぇなぁ、この! 小娘が」 「じゃじゃ馬だな。乗りこなすの大変じゃねぇ?」  うるさそうに投下物を払っていた破落戸たちの目が、次第に剣呑《けんのん》になる。  広い部屋を逃《に》げまくった末に、秀麗はとうとう壁際《かべぎわ》に追いつめられてしまった。 「追いかけっこは、終わりだぜ」  その瞬間《しゅんかん》、傍《かたわ》らの扉が吹っ飛んだ。蝶番《ちょうつがい》や壁《かべ》の破片とともに部屋の中へ投げ飛ばされてきたのは、なぜか入口を固めていたはずの下《した》っ端《ぱ》たちだった。 「な、なんだ?」  もんどりうって床《ゆか》に叩《たた》きつけられた男たちは、血反吐《ちへど》をはいて気絶した。その変な形に陥没《かんぼつ》した鼻や頬骨《ほおぼね》を見て、秀麗を含《ふく》んだ室内の人間の動きが一瞬止まる。 「……ったく、またお前か。本当にとろい女だな」  吹っ飛んだ扉の向こうから現れたのは、酒瓶《さかびん》片手に今まで垂れ気味だった目を猫《ねこ》のようにつり上げた、影月だった。      *** (で、でたー)  以前、似たような状況《じょうきょう》でこの豹変《ひょうへん》ぶりを目にして、今回もある程度|覚悟《かくご》をしていた秀麗でさえ片|頬《ほお》がひきつるほどその落差は激しい。当然、免疫《めんえき》のない破落戸たちは何が起きたのか理解できずにぽかんとしている。 「馬鹿が。オレに酒を呑ませたのが運の尽《つ》きだったな」  ひんやりと影月は笑った。その顔は今までの影月からはおよそ想像もできないものだった。  杜影月は酒が呑めないのではなく、酒を呑むと人が変わるのだ。いやもうそれは、人が変わるというより——。 「女、オレはお人好しの影月[#「影月」に傍点]とは違《ちが》う。いつでも助けてもらえると思ったら大間違いだ」  まるで別人なのである。顔つきも口調もその動きさえも。  扉の向こうはまさしく死屍《しし》累々《るいるい》。ゆうに少年の三倍は体格差がありそうな男たちがことごとくのびている。影月は、よろよろと顔を上げた一人を無造作に酒瓶で殴《なぐ》った。瓶が割れ、男は血を流しながら気絶した。手に飛び散った酒をなめとり、影月は言った。 「今日は特別だ、及第《きゅうだい》祝いとでも思っておけ。影月も怒っていたようだしな。あいつが文句も言わずに呑むのは珍《めずら》しい。いつもならオレを出すくらいならと、おとなしくやられたままでいるようなヤツだからな」  駆《か》けつけてきた新手を、次々と拳《こぶし》と蹴技《しゅうぎ》で沈《しず》めていく。それはまったく見事《みごと》な動きだった。 「……ちっ、数だけそろえても、中身がこれか。弱いくせに身の程《ほど》知らずに喧嘩《けんか》を売ってくるな。うっとうしい」  次々と床《ゆか》に沈められていく仲間の哀《あわ》れな姿に、残った男たちはようやく事態を理解した。 「胡蝶! 胡蝶っ!! ※《こう》[#「おんなへん+亘」]娥楼の用心棒も助《すけ》っ人《と》に連れてこいっ!!」  怒鳴《どな》り声に、この室の主である美女が姿を現した。  どんな女も足もとにも及《およ》ばない美貌《びぼう》と教養と矜持《きょうじ》。貴陽でもっともすぐれた名妓《めいぎ》。 「——馬鹿をお言いでないよ」  麗《うるわ》しさはそのままに、凜とした声がその場を打った。  天の助けとばかりに駆け寄った破落戸どもを、すっと胡蝶の前に立った大男が容赦《ようしゃ》なく殴り飛ばした。 「……こ、胡蝶!?」 「あんた協力するっていってたじゃねぇか!」  わめく破落戸たちを、絶世の美女は鼻で笑った。口調ががらりと変わる。 「あきれたねぇ。この胡蝶を誰《だれ》だと思ってるんだい」  それはもはや客相手に対する優閑《ゆうかん》とした言動ではなかった。 「てめぇ…っ」  裏切られたと知った一人が、拳を握《にぎ》り込んでくる。だがそれも胡蝶の護衛の大男があっさり蹴り飛ばした。紙のように飛ばされてきたその男を、影月はもはや触《さわ》る価値もないというようにふわりと飛んで避《よ》けた。秀麗のそばに着地して、ちらりと猫目を投げる。 「あ、ええと、ありがとう影月くん」 「ただの気まぐれだ。それにオレは陽月だ」 「え?」  聞き返した秀麗の顎《あご》に手をかけると、何を思ったのかまじまじと見つめてくる。 「そうだな。礼なら、言葉でなく体で返してもらうか」 「————え!? は!?」  ずいぶん慣れた仕草で唇《くちびる》を寄せてくる。冷ややかな視線に甘さは一切なく、何かをさぐり、確かめようとするようだった。けれど唇が触れあう寸前、少年はふらりと身体《からだ》を揺《ゆ》らし、たたらを踏んだ。苛立《いらだ》ったようにこめかみをおさえる。 「ち。もっと呑《の》んどけばよかったな。時間切れか」  倒《たお》れ込む少年を、秀麗は慌《あわ》てて抱《だ》きとめた。見ればもうすこやかな寝息《ねいき》を立てている。 (……い、今のはいったい……)  秀麗が必死で状況把握《じょうきょうはあく》をこころみている間に、萎縮《いしゅく》した破落戸《ごろつき》どもは胡蝶の手下に次々とたたまれていた。そして最後まで抵抗《ていこう》していた筆頭格の破落戸がひとり残った。 「胡蝶! てめぇどういうつもりだ。旦那《だんな》にさんざん可愛《かわい》がってもらっといて——!!」 「裏切った、って? 馬鹿《ばか》だねぇ。あたしはもともとこっち側さ[#「もともとこっち側さ」に傍点]。鼻の下伸ばして騙《だま》されたお前たちが馬鹿なんだよ。」  胡蝶は鈴《すず》を転がすような声で笑った。 「この胡蝶を可愛がる[#「可愛がる」に傍点]とはね。あたしを落籍《ひか》すなんて寝言《ねごと》いってたあんたたちの旦那と同じくらいふざけた言い草だねぇ。まさかこの胡蝶を身請《みう》けしようなんざ、……百年早いんだよ」  胡蝶は美麗《びれい》な足で床を打った。その瞬間、床に転がる破落戸どもとは比べものにならないほど鍛《きた》えられ、統率された屈強《くっきょう》な男たちがずらりと並んだ。 「貴陽下街を束ねる親分衆の一人、※《こう》[#「おんなへん+亘」]娥楼の胡蝶をよくもただの女と見くびって、薄汚《うすぎたな》い手で触っておくれだねえ。あげく、あたしの大事な秀麗ちゃんをここまで貶《おとし》めてくれるとは」  秀麗はハッと顔を上げた。あたしの大事な[#「あたしの大事な」に傍点]——? 「ま、お前なんぞに何を言っても無駄《むだ》かねぇ。胡蝶の名も知らない三下が、よくまあ馬鹿なことしでかしたもんだよ。とりあえず、カタがついたら下にぶら下がってるのををちょん切らせてもらうからね。男の風上にもおけないヤツに、そいつをつけとく価値はないだろ」  さらりとした言葉だが、明らかに本気だった。破落戸は震《ふる》え上がった。  もはや何の関心もないとばかりに一瞥《いちべつ》をくれると、うってかわって心配そうな表情で、胡蝶は秀麗に歩み寄ってきた。 「よく頑張《がんば》ったね、秀麗ちゃん。……怖《こわ》い思いをさせて、悪かったねぇ」  秀麗は安堵《あんど》のあまりめまいがした。悪夢の途中《とちゅう》で目が覚めたように、全身から力が抜けた。 「胡蝶|妓《ねえ》さん……いつもの胡蝶妓さんだぁあ……」 「馬鹿だねこの子は。十年近く面倒見《めんどうみ》てきた娘《むすめ》を、あたしが放《ほう》りだすわけないだろう」  胡蝶は、ようやく秀麗の知っている美しくて優《やさ》しい笑《え》みを浮《う》かべた。 「だって……だって、胡蝶妓さんにまで嫌《きら》われたら、どうしようって」  この※《こう》[#「おんなへん+亘」]娥楼で胡蝶と過ごした時は、秀麗にとってとても大切なものだった。秀麗を形づくる半分は、胡蝶からもらったとさえいっていい。  母を亡くした秀麗に、胡蝶はたくさんのことを教えてくれた。優しくしてくれた。誇《ほこ》り高く麗しく、自らに確固たる自信をもち、いつでも誰に対してもしゃんと背筋を伸《の》ばせる本物の強さをもつ彼女は、ずっと秀麗にとって憧《あこが》れであり、尊敬する女性だった。  だからこそ、あのひと言はひどくこたえた。 『悪いんだけど、秀麗ちゃん——しばらく、ここへはこないでもらえるかい』  及第のあと訪《おとず》れた秀麗に、少し困ったように。——泣くのをこらえるのが精一杯《せいいっぱい》だった。  影月を膝《ひざ》に寝《ね》かせたままへたりこんでいた秀麗の横に、胡蝶はそっとしゃがんだ。  よしよしと抱き寄せられ、頭を撫《な》でてあやされる。涙腺《るいせん》がゆるむのを隠《かく》そうとして、秀麗は胡蝶の肩口《かたぐち》に額を当てた。けれど慣れ親しんだ香《こう》のにおいに、ますます目頭が熱くなる。 「悪かった、悪かったね。あんたの姿を例のお大尽《だいじん》に見られるわけにはいかないからッて、来るななんていっちまって……。秀麗ちゃんのためになるならって藍様の頼みを引き受けたけど、……あのときのあんたの顔を見たときは心底|後悔《こうかい》したよ。本当にすまなかったね」  藍様、ということは、藍楸瑛もぐるだったのか。  張りつめていた糸がぷつりと切れた気がした。必死でこらえていた涙《なみだ》があふれだした。 「い、今まで泣かないできたのに…っ。静蘭にだって」 「ああ、知ってるよ。偉《えら》かったねぇ。藍様からもきいていたよ。男相手に戦うのに、男には泣きつけないと思ったんだろう? たとえ静蘭にでもね。まったくあんたは自分に厳しすぎるよ。……でも、よく頑張ったね。誇りに思うよ、かわいいあたしの娘」  胡蝶はぎゅっと秀麗を抱きしめた。 「……こんなときじゃなけりゃ、一晩だって泣かせてあげるんだけどねぇ」  胡蝶はぼろぼろとこぼれる秀麗の涙を、よく手入れされた綺麗《きれい》な指先でそっとぬぐった。 「さ、涙をおふき。まだまだやることは残ってる」 「もう——何が何だか」 「おっと、それを説明してくれるお二人が到着《とうちゃく》したみたいだねぇ」  高く響《ひび》く足音が壊《こわ》れた扉《とびら》の向こうから聞こえてくる。 「ったく、男だったら惚《ほ》れた女の大事に駆けつけるもんだってのに、まったく遅《おそ》いったらありゃしない。小さなボーヤがいちばんいいとこもってっちまったじゃないか。情けないねぇ」  ぶつぶつと口中で胡蝶が呟く。秀麗はだらしなく伸びた破落戸たちを問答無用で踏みつけて駆けてくる劉輝と静蘭をぼんやり眺《なが》めながら、不思議、と思った。 (……ああして二人で並んでると、どこか似てるわ……)      ***  事情を聞いた秀麗は考えこむように顎に手をやった。 「……つまり、私は今、及第は実力じゃないって疑われてて、進士返上するようにって?」 「そうだ。そなたの後見役が不正|介入《かいにゅう》してそなたを及第させたと」 「とばっちりで後見の人が拘束《こうそく》されたっていってたけど、その、大丈夫《だいじょうぶ》なの? せっかく女|官吏《かんり》の後見なんて不利なことをわざわざ引き受けてくださったかたなのに……ご迷惑《めいわく》を」  劉輝と静蘭はなんともいえない顔をした。 「……いや、まったく平気だろう」 「そうです。あの人が黙《だま》って拘束されているわけがありません。全然心配ありませんよ」  どきっぱりと言われ、秀麗は面食《めんく》らった。 「そ、そうなの?」  しかし劉輝はともかく静蘭まで、自分の後見人のことを知っている口ぶりなのには驚《おどろ》いた。 「ああ、そちらは放っておいて大丈夫だ。それより、そなたのことだ」 「——明日正午の査問会に出て、認めさせれば良いんでしょう? ——受けて立つわ」  はっきり言い切ったその潔《いさぎよ》さに、劉輝と静蘭は少しく笑った。 「……どのみち、いつかはこういう機会を設けようと思っていた。とりあえず今夜は静蘭と影月も一緒《いっしょ》に、この※《こう》[#「おんなへん+亘」]娥楼に泊《と》まったほうがいい。守りは完璧《かんぺき》だ。——胡蝶」  劉輝が振《ふ》り返ると、腕組《うでぐ》みした胡蝶が深く頷《うなず》く。 「言われなくても。あたしのかわいい娘に手を出そうなんざ、千年早いってことを思い知らせてやんないとねぇ。捕《つか》まえた奴《やつ》ら、全員ついてるもんをなます切りにしちまおう。いちばんにしてやりたいのは、あのお大尽様だけどねぇ」  この女傑《じょけつ》ならやりかねない。劉輝と静蘭は同じ男性としてほんの少し相手に同情しつつ、賢明《けんめい》にも無言を通した。 「報告はすべて藍将軍に。主上さん、ほかに何か、あたしがお力になれることはあります?」  貴陽下街を仕切るのはそれぞれ一家を構える親分衆——通称「組連《くみれん》」と呼ばれる組織であり、胡蝶もそのなかのひとつ、貴陽花街|妓女《ぎじょ》連を束ねる親分衆の一人だった。大尽だろうが貴族だろうが頭を下げる義理などないという彼らは、無論王に対しても同様の態度を貫《つらぬ》く。けれど今冬に起こった小さな一件で、劉輝は彼らの力を借りる権利を得た。王ではなく、劉輝自身に力を貸すと約束してくれた彼らは、ゆえに劉輝の頼みしか聞くことはない。  胡蝶の問いかけに、劉輝は真剣《しんけん》な顔で応《こた》えた。 「これからどんなゴタゴタが起こっても、城下の破落戸連中をおさえてほしい。また、あの男の邸《やしき》周りに見張りを置いてほしい。万が一にも逃《に》げ出されたら困る」 「おやすいご用です。アリの子一|匹《ぴき》通しませんよ。ただし、あたしらの仕切りはあくまでも城下。あのお大尽がお城で飼ってる奴らには手出しできませんからね」 「わかっている」  劉輝は言って、秀麗の方へ向き直った。 「秀麗。明日、正午までにこいといっても、間違《まちが》いなく妨害《ぼうがい》が入る。護衛に羽林軍をつけようかとも思ったが、——証拠《しょうこ》集めの一端《いったん》としてやめた。自力できてほしい」 「……私、弱いわよ?」 「だから静蘭をつける。今の静蘭なら、どんな相手でも遠慮《えんりょ》する必要はない」 「……? どういうこと?」 「いずれ、わかる」  劉輝は嬉《うれ》しそうに静蘭を見た。静蘭は仕方ないという——けれど、どこか吹《ふ》っ切れたような顔をしていた。  秀麗は首を傾《かし》げたが、深くは訊《き》かなかった。 「……わかったわ。で、あのね、ひとつ頼みたいことがあるのよ」 「なんだ?」 「やっておきたいことがあるの。府庫に置いてあるんだけど」 「ああ、それならもってきてある」 「……なんですって?」 「足りないものがあったら言ってくれ。すぐに届ける。明日の正午前に完成させて届けてくれると助かるな。静蘭が紫氏の紋印《もんいん》をもっているから、それを使って送ってくれて構わない」  劉輝が影月に預け、さらに静蘭の手に渡《わた》った紫氏の紋印は様々な用途《ようと》があるが、その一つが封蝋《ふうろう》に押せば誰《だれ》にも開封《かいふう》されずに最速で直接王のもとまで届けられるというものだった。いわば最重要機密文として扱《あつか》われ、封を開けることができるのは王と三師、宰相《さいしょう》のみになる。  いたずらっ子のような笑みを浮《う》かべる劉輝に、秀麗は目を瞠《みは》った。その表情《かお》はいつも頓珍漢《とんちんかん》なことばかりしているときとさほど変わらないのに。  打てば響くような、すべてを見通して手を打つ、その驚くべき洞察《どうさつ》と聡明《そうめい》さは。 (……ああ、だからなのね)  嬉しい。でもくやしい。  だけど——この王になら仕えられる。絳攸や楸瑛がそうしているように。  邸に置いてきぼりにした邵可と「客人」を心配した静蘭が、一度様子を見てくると告げて※《こう》[#「おんなへん+亘」]娥楼をでた。胡蝶も眠《ねむ》りっぱなしの影月を寝台《しんだい》に移すべく配下の者に指示を出すと、部屋のほうぼうに転がった破落戸《ごろつき》たちを回収し、思わせぶりな笑《え》みを残して別室へ去っていった。  二人が行ってしまうと、あとには秀麗と劉輝がぽつねんと取り残された。  秀麗はちらりと劉輝を見上げた。 「ねぇ」 「ん?」 「…もしかして私、あなたに利用された?」  劉輝はわずかに言葉に詰《つ》まった。 「結果的には、そう、なるのかもしれない。すまぬ」  秀麗はふと笑った。 「ありがとう」 「え?」 「あなたも絳攸様も藍将軍も、私が宮城にきてから、何一つ甘やかさない。誰かに狙《ねら》われる可能性も、私を利用することも、正直に話してくれた。——一年前とは違って」  劉輝はハッと秀麗を見た。 「ただのカンよ。一年前のあのとき、あなたたちは『賊《ぞく》が忍《しの》びこんだ』とだけしか言わなかった。誰もいない後宮に突然《とつぜん》貴妃《きひ》が入ったんだもの、今考えれば水面下で何があったって全然おかしくなかったわ。茶|太保《たいほ》も急死されたのに、誰も何も言わなかった。私は守られていたのよね。箱入りのお姫様《ひめさま》のように、何も知ることなく無《む》邪気《じゃき》に笑っていられるように」 「秀麗……」 「責めてないわ。だってあのときは本当に守られるべきお姫様だったんだもの。政事《まつりごと》のことを話せないのは当たり前だと思うわ。でも——今は違う。違うでしょ? それが嬉しいの」  秀麗は官吏になりたかった。もう二度と九年前のような思いをしたくなかった。何一つできなかったかつてと違って、官吏になれば、手のひらの大切なものを握《にぎ》りしめていられると思った。そのための努力ができる場所にありたかった。守られる側ではなく、守る側になりたかった。庇《かば》われるのではなく、自分の背中に大切な人たちを庇えるように。  劉輝たちとの距離《きょり》は果てしなく遠いけれど、秀麗はいま確かに線を踏《ふ》み越《こ》えたのだ。守るべき側へ。それを彼らも認めてくれたのだと。 「守るべきか弱い女じゃなくて、対等に話すべき官吏として私を扱ってくれてありがとう。それと、助けにきてくれて嬉しかったわ」  秀麗は真摯《しんし》な瞳《ひとみ》で劉輝を見つめた。 「一つだけきかせて。二度は訊かない。だから嘘《うそ》はなしよ」  息ひとつ吐いて、秀麗はゆっくりと口を開いた。 「私は、胸を張って官吏になれる? やましいところは本当にない?」  自分の及第に本当に手心はなかったのかと、訊いた秀麗に。  劉輝ははっきりと微笑《ほほえ》んだ。 「ない」 「——それなら、もう何も怖《こわ》くないわ」  劉輝は思わず手をのばしかけ、やめた。そして溜息《ためいき》をひとつついた。 「余の願いも、ひとつ訊いてくれると嬉しい」 「なに?」 「……配属が決まったあとでいい、余のために時間を割いてほしいのだが」  いいわよ、と言おうとした秀麗は劉輝を見て少しく息を呑《の》んだ。  大人の男の顔をしていた。子供のように思っていた秀麗の考えを一掃《いっそう》してしまうほど、静かで強い意志を内に秘《ひ》めたような表情。  ——彼は自分より三つも年上なのだと、今さらのように秀麗は気づいた。 「秀麗? ど、どうした。手作り饅頭《まんじゅう》が食べたいとか、二胡《にこ》がききたいとか我儘《わがまま》はいわぬ」  一瞬《いっしゅん》にしてもとの劉輝に戻《もど》ったが、さっきの顔は秀麗の脳裏に焼きついた。 「……暇《ひま》があったらね」  彼は、本当に自分が思っていたような男だったのだろうか——と。小さなさざ波がたち、秀麗の心を揺《ゆ》らした。  そのときだった。胡蝶がひょっこり姿を見せた。 「ちょいと主上さん」 「どうした」 「連絡《れんらく》がきたよ。『四半刻前をもって城下の機能半分停止。即刻《そっこく》帰ってこないと殺す』と、絳攸様からのお達し」  唖然《あぜん》とする秀麗の横で、劉輝が小さく呻《うめ》く。彼はその連絡を半ば予期していたようだった。 「………今夜は帰りたくない……」  しくしくと劉輝は泣いた。貴陽|随一《ずいいち》の妓楼《ぎろう》の最上階では毎晩のように耳にする台詞《せりふ》であったが、今日はまたかつてないほど切実かつ悲しげな響《ひび》きがあった。      *** 「——遅《おそ》い!」  開口一番、劉輝は絳攸の罵声《ばせい》に迎《むか》えられた。 「う……す、すまぬ」 「とっとと扉《とびら》を閉める!」 「はい!」  思わず力一杯《ちからいっぱい》閉めると、その余波で近くの書翰《しょかん》が崩《くず》れ落ち、劉輝は埋《う》まった。 「ああっ! 何やってんですかあんたは!!」  近くにいた楸瑛が、苦笑しつつ書翰の山をかきわけて王様の発掘《はっくつ》にかかった。 「主上、大丈夫《だいじょうぶ》ですか?」 「……余はこのまま埋まっていたい……」 「寝言《ねごと》は寝てから言ってくださいね」  楸瑛はにこやかに、かつ問答無用に埋まる劉輝を引きずりだした。 「とっとと机案《つくえ》につく!」  びしばしと絳攸に怒鳴《どな》られ、劉輝は膝上《ひざうえ》までせまってきている書翰を文字通り泳ぐようにかきわけて必死に机案までたどりついた。机案の上に山盛りになっている書翰を崩さないよう、そろそろと椅子《いす》をひこうとしたが、まずは椅子をひく隙間《すきま》をあけなくてはならなかった。しゃがみこみ、せっせと犬かきのように書翰をのけて、どうにかこうにか椅子に着く。 「一応|訊《き》きますが、秀麗|殿《どの》は無事で? まあ胡蝶に預けたから間違《まちが》いはないと思いますが」 「無事だ。ついでに静蘭もとうとう白大将軍のところに足を運んだ。剣が欲しいと」  絳攸と楸瑛が眉《まゆ》を上げた。 「ようやく肚《はら》を決めましたか。けれど右羽林軍の方とはね。残念。左羽林軍にきてほしかったんですが。これでしばらくは、うちの黒大将軍がグレること決定ですね」 「……たとえ形だけでも、そなたの下なんぞ死んでもイヤだったのではないか」 「おや主上、いま何とおっしゃいました?」 「……すみません。失言でした」  絳攸はそのやりとりを眺《なが》めつつ溜息をついた。 「国試に状元|及第《きゅうだい》できる頭だぞ。人手不足の折、どっちかというと文官を選んでくれたほうが都合が良かったんだが」 「静蘭が承知するまい。近衛に入るのでさえ、あれほどためらっていたのだ。まして文官では——危険性が高すぎる」  静蘭が王宮から追放されたのは、まだたった十四年前。公子一|優秀《ゆうしゅう》と謳《うた》われた彼は、いまだにその器量を惜《お》しまれて囁《ささや》かれる存在だ。 「それに、静蘭を文官にするくらいなら——」  劉輝は目を閉じた。剣を望んだという兄に、ふと二振りの剣を思い出す。 「王にする」 「……主上」  眉をひそめる絳攸に、劉輝はわずかに気配だけで笑った。 「わかってる。ただの戯《ざ》れ言だ。ただ、余は王でなく、兄上の補佐《ほさ》でありたかった」  絳攸は劉輝の感傷を一顧《いっこ》だにしなかった。 「バカバカしい。静蘭はあなたの兄ではありません。従って、王位につくことなどありえません。そんな架空《かくう》の話をするより、今! 目の前の書翰の山をなんとかしてください」 「……意地悪だな」 「あいにく私は楸瑛と違って、清苑公子[#「清苑公子」に傍点]を知りませんので。——一つ言っておきます。本気でそんなことを言ったが最後、私は朝廷《ちょうてい》を辞します。私はあなただからここにいるんです」  劉輝は口をつぐむと、照れたように赤くなった。それはかつて誰《だれ》にも顧《かえり》みられることのなかった劉輝にとって、宝玉にもまさる言葉だった。  隣《となり》で楸瑛がにやにやと笑った。 「すごい殺し文句だ。絳攸、私にも言って欲しいな。『お前がいるからここにいる』って」 「……貴様は書翰に埋もれて今すぐ窒息死《ちっそくし》しろ!」  絳攸は手近な巻物を連打で投げつけたが、楸瑛は器用に全部|避《よ》けた。  劉輝は気を取り直すと、文字通り書翰に埋もれている執務《しつむ》室をざっと眺めた。 「一応訊くが、これはすべて嘆願《たんがん》書か」 「そうです!」 「……う、うーむ……まさか、ここまでやってくれるとは……」  劉輝は机案に突《つ》っ伏《ぷ》したかったが、突っ伏すところがなかった。  積みあげられた嘆願書を前に、さすがの楸瑛もどことなく笑い声が棒読みである。 「いやー、でも本当に豪快《ごうかい》だねぇ、君の上司」 「……というか、これは玖琅様の仕業だ。あの人は紅一族大事の人だから」  紅黎深が拘束《こうそく》されてからほんの一刻もたたないうちに、城下は大騒《おおさわ》ぎになった。貴陽の紅一族ことごとくが仕事を停止したのである。  職を問わずあらゆる分野で絶大な権力と影響《えいきょう》力を誇《ほこ》る紅一族の仕事が止まると、城下の半分の機能があっというまに停止した。取引相手が非難をすると、口をそろえて「文句は城へ」というものだから、わずかもしないうちにこの執務室には泳げるほどの量の嘆願書がつみあがった。今も届けられる嘆願書は着々と増えつづけており、はみ出した書翰が氾濫《はんらん》した河のように廊下《ろうか》を占拠《せんきょ》している。城内もすっかり大混乱の様相を呈《てい》していた。 「これでも玖琅様にしては手加減している。塩と鉄と米には制限を加えてないからな。範囲《はんい》も貴陽だけに抑《おさ》えているし、紅|姓《せい》の官吏《かんり》に辞表提出もさせてない」 「これで紅家ゆかりの官吏にそろって仕事を放棄《ほうき》されちゃ、冗談《じょうだん》でなく国が倒《たお》れるよ」 「……これが、紅家の力か」  溜息をつきつつ、劉輝は嘆願書の山を見回した。 「なるほどな。余もいい勉強になった。これほどの力を持っているのに、よくも余みたいな若造に国を任せているものだ」 「国を頂点で支配したいなどと思っていたら、紅藍両家はここまで強大になりません。王など苦労ばかりで割に合わない仕事だと知ってますからね」  その通り現在割に合わない仕事をするハメになっている劉輝は、自分を不幸だと思いつつ、いちばん訊きたくないことを訊いた。 「紅|尚書《しょうしょ》はいまどうしてる」 「離宮《りきゅう》の一つを丸ごと占拠して、自発的|軟禁《なんきん》状態に入っています」  溜息まじりに絳攸が報告すると、楸瑛がわざとらしく目を見開いた。 「え、あれって軟禁なのかい。主上より優雅《ゆうが》な生活を送ってるように見えるけど」 「なぜ解放されない?」 「……不当な汚名《おめい》が晴れるまでは、�軟禁�される覚悟《かくご》だそうです。当然|嫌《いや》がらせです」  迷惑《めいわく》だ、と劉輝は心底思った。  すでに絳攸の腰《こし》まで書翰は迫《せま》ってきている。崩れてきた嘆願書の山を横に流しながら、しみじみと楸瑛は呟《つぶや》いた。 「それにしても、ここまで堂々かつ無茶苦茶な圧力をかけられると、もう圧力じゃないような気がしてくるから不思議だよねぇ……紅家が正義に見えるっていうか」  実に珍《めずら》しくも劉輝は頭痛を感じていた。新米王なのだからもう少し手加減してくれ。 「——楸瑛。もう半分の機能は藍家の支配下だ。今の状況《じょうきょう》でどれくらい保つ?」  楸瑛はくすくすと笑った。 「これが他家のやったことなら、この機にすべての地盤《じばん》を吸収|合併《がっぺい》し、城下の機能を正常に戻《もど》すのに一日もかかりません。ですが、いかんせん玖琅|殿《どの》が相手ではそうもいかないでしょう。彼にしてもおそらく単なる揺《ゆ》さぶりのつもりでしょうし。保《も》たせろと言われればいくらでも保たせますが——おそらくこの混乱は、藍家が出るまでもなく一日でおさまると思います。逆に言えば、玖琅殿からの無言の要求ですね。一日で片を付けろという」 「わかった。こうなったらとっとと片づけるぞ。これ以上|馬鹿《ばか》を野放しにすると、とばっちりを食って朝廷《こっち》が先に沈《しず》む。……まったく、権力に弱い小物のくせして、なにをとち狂《くる》って絳攸でなく黎深に手を出したんだあの男は」  憤慨《ふんがい》する劉輝に、楸瑛がふと思いついたように言う。 「もしかして彼は、黎深殿が紅家当主ってコト知らなかったんじゃないですか。私たちは付きあい上、当然のように知ってましたけど、考えてみれば黎深殿が公《おおやけ》の場でご自分の立場を明かしたことはありませんし、そもそも七家当主が宮仕えしてるなんて、普通《ふつう》は考えませんし」  しーん、と劉輝と絳攸は押し黙《だま》った。そうかもしれない、と二人は思った。 「……それは盲点《もうてん》だった」 「そこまで小物だとは思わなかったからな」 「さてここで一つ朗報が」  にや、と楸瑛は笑った。 「燕青から報告がありました。どうやら同伴《どうはん》の少女が急かしたらしく、ずいぶん早い到着《とうちゃく》になるようで。明日夕刻までには到着します」  劉輝は即座《そくざ》に机案から墨《すみ》と筆の発掘にかかった。 「——正午までに到着せよとの勅書《ちょくしょ》を出す。大至急届けてくれ」 「おそれながら、すでに出しております。査問会の根回しもすんでいます。あと、こちらの小箱、邵可様がら届きました。ものすごい証明書つきで」 「………………。だ、誰がもってた?」 「ひょんなご縁《えん》で玖琅様が。そりゃ見つかるわけないですねぇ。……もう一つ」  楸瑛は何ごとか耳打ちした。劉輝は瞠目《どうもく》し——そして額に手を当てた。 「……秀麗は、本当にすごいな」 「ええ。心からそう思います」  本人のあずかり知らぬところで「馬鹿」と「小物」の称号《しょうごう》をほしいままにしていた彼は、自分が引き起こした事態に、今や顔面|蒼白《そうはく》だった。 「馬鹿な……馬鹿な! 黎深に——吏部とはいえたかが一尚書になぜこれほどの力が……い、いや、まだ禍《わざわい》は我が身にまでは降りかからぬ。静養と称《しょう》して紫州をでよう。あとはこの指輪さえあれば……」  目利《めき》きの妓女《ぎじょ》・胡蝶からお墨付きをもらった偽《にせ》指輪を、男は大切そうに撫《な》で回し、あるところへ大切そうに隠《かく》した。高級|妓楼《ぎろう》でふんぞり返っていたときとは比べものにならない卑屈《ひくつ》さである。そして彼は憎々《にくにく》しげに吐《は》き捨てる。 「あの小娘《こむすめ》が! 明日の正午だと? ふん、間に合わせてなどやるものか!」  逃亡《とうぼう》の準備をはじめるべく、彼は家人に命をくだした。      ***  夜——※《こう》[#「おんなへん+亘」]娥楼の一室でせっせと書きものをしながら、秀麗は邸《やしき》から戻ってきた静蘭から聞いた街の様子と、胡蝶が苦笑《くしょう》とともにもらした言葉を思い出した。 『……紅一族を怒《おこ》らせちまったんだねぇ』 「紅家、かぁ」  これが、紅一族の力。わずか数刻で城下の半分を機能停止にさせるほどの。  いま初めて、秀麗は父が捨てたもの、捨てざるを得なかったものの大きさを知った。  紅本家の長子であった父は、これほどの権力を持つ一族の次期宗主として生まれたのだ。おそらくは国さえもたやすく動かすことができる、この強大なる姓を束ねる者として。 (そりゃー、あの父様には無理だわね)  そして無理でよかったと思う。幼いときを、父と母と静蘭と、四人で過ごすことのできた自分は、とても幸せだったのだとも。貧乏《びんぼう》でも、つらい時があっても、秀麗の手のひらにはいつも、いちばん大切なものがあったから。  軽い叩音《こうおん》とともに、別室の扉《とびら》がひらいた。 「す、すみません、ずいぶん寝《ね》てしまって」 「影月くん! もとに戻ったのね」  もとの垂れ気味の目に戻った影月は、おっとりと苦笑した。 「はいー。あの、あいつ、お役に立ちましたか? 何かご迷惑をおかけしませんでしたか」  一滴《いってき》でも酒が入ると人が変わる(?)影月だが、その間の記憶《きおく》はなぜか一切《いっさい》ないのである。 「…………。ばっちり」 「び、微妙《びみょう》な間が気になりますけど。胡蝶さんからお話うかがいました。お手伝いします」  秀麗は遠慮《えんりょ》しなかった。いま彼の助けは切実に必要だった。 「これ、いつまでに仕上げれば?」 「……明日の正午」 「うわぁ。ぎりぎりですねー」  影月は席につくとすぐに作業をはじめた。墨をつぎたす隙《ひま》すら惜《お》しいと思わせる速さで筆を滑《すべ》らせてゆく。そのきりりとした表情には確かに状元|及第《きゅうだい》を頷《うなず》かせる片鱗《へんりん》があった。  秀麗も同じくせっせと筆を動かしながら、顔を上げずに問いかけた。 「ねえ影月くん、いつから気づいてたの[#「いつから気づいてたの」に傍点]?」 「沓磨《くつみが》きをしてると、色々な噂《うわさ》が入ってきましたからー。秀麗さんもそうだったでしょう?」 「……でも、私は遅《おそ》かったわ」 「僕には事前情報ありましたし、それと午に胡蝶さんの文と一緒《いっしょ》に早馬で僕|宛《あて》に届いた故郷からの文があったでしょう? これも何かお役に立つんじゃないでしょうか。見てください」  秀麗は何気なく書翰《しょかん》をひらいた。そして文面をあらためたのち、顔を上げた秀麗の瞳《ひとみ》にはごうごうと意欲の炎《ほのお》が燃え上がっていた。 「……明日正午まで、やるわよ影月くん」 「勿論《もちろん》です。あ、そうだ、秀麗さん」 「なに?」 「秀麗さんには、優《やさ》しい叔父《おじ》さんがいていいですね。僕とっても羨《うらや》ましいですー」  作業を再開した秀麗の筆が、ぴたりと止まる。 「……叔父さま……?」  ——って、誰《だれ》? [#改ページ]    第六章 その男きたりて 「おっやー?」  貴陽まであと十数里というところで伝使から文を受けとった髭《ひげ》もじゃ男は、文面をあらためて眉《まゆ》を上げた。その姿に、同行の馬上の少女は不安そうな顔をした。 「燕青様、どうしたのですか」 「んー。いや、まあ、なんか、今日中に髭|剃《そ》んなきゃならなくなったなーって」 「……その似顔絵は」 「ああ。もし見かけたらとっつかまえてくれってさ。それにしてもよく頑張《がんば》ったな、香鈴|嬢《じょう》ちゃん。男でもキツイ強行軍だったのにな」  少女は一年前より少し大人びた顔を曇《くも》らせた。 「少しでも、先を急がなければ。秀麗様にもお会いして——」 「殺そうとした相手に会うの、怖《こわ》くねぇ? つか避けようと思えば避けられるだろ」 「……容赦《ようしゃ》がないですね」  いつも飄々《ひょうひょう》として笑っているけれど。彼は本当に大切なことは誤魔化《ごまか》さない。たとえ相手が女子供でも、まっすぐに心をついてくる。香鈴と呼ばれた少女には、ともに旅をしてきたこのひと月でそれが嫌《いや》というほどわかっていた。 「……怖いですわ。でももう、逃《に》げません。自分のしたことから目を背けるのは、もうやめると、大奥様と——自分に誓《ちか》いました。何より私は、秀麗様を」  その先をのみこんだ香鈴に、燕青は苦笑した。 「姫《ひめ》さんが、好きだったんだな?」 「……い、今の私が、そんなことをいえるはずがありません」  何も知らず貴妃《きひ》の秀麗に仕えていた日々は、本当に楽しく、幸せだった。拾い、慈《いつく》しみ、育ててくれた茶|太保《たいほ》と離《はな》れて寂《さび》しくつらかった気持ちもまぎれるほど。この人になら、ずっとそばでお仕えしてもいいと、心から思った。——けれど。  茶太保のためになるならと、香鈴は秀麗を殺す決意をし——そして何度も実行した。  秀麗が向けてくれた優しさを、その心を、手ひどく裏切ったのは自分。そして今も裏切りつづけている。何も知らない秀麗に、自らの口で真実を話すまでは、香鈴の裏切りはつづく。 「私は、前を向いて、歩き出さなくては。一生、償《つぐな》いつづけるつもりです。それだけのことを私はしてしまった」 「そうだな。姫さんが許してくれても、そうするべきだ。相手が許すか許さないかなんて、関係ない。犯した罪は、一生ついてまわる。消えることはない。だから相手がどうでも、背負いつづけなくちゃな。まあ自分と向き合うなら、必然的にそうなるけどな」  本当に、彼は容赦がなかった。それでも香鈴はホッとした。ともすれば逃げようとする弱い自分の心を、彼は引き戻《もど》してくれる。慰《なぐさ》めなど、今の香鈴には必要ない。 「さて、正午前には宮城に着くようにってさ。も少し踏《ふ》ん張るぞ」 「はい」  香鈴は顔を上げた。      *** 「鳳珠——こ、これを」  うっかり名前で呼んだことにも気づかないほど慌《あわ》てて、景|侍郎《じろう》は尚書《しょうしょ》室に駆《か》け込んできた。 「秀くんと杜進士の連名で。半月繰り上げで魯|官吏《かんり》からの課題を提出しますと」  仮面の長官は渡《わた》された書翰を無言でめくった。  景侍郎は感|極《きわ》まったように溜息《ためいき》をついた。 「あなたが少しずつ紛《まぎ》れこませていたものを——こんなに見事《みごと》に拾ってくるなんて」 「それだけじゃない。他の省庁からも証拠《しょうこ》を集めてきている。沓磨きや厠掃除《かわやそうじ》で聞いた噂から推考して、それを裏付ける根拠《こんきょ》もそろえてきたようだな」  仮面の裏で彼が微笑《びしょう》を浮《う》かべていることが、景侍郎ははっきりとわかった。 「このままで充分《じゅうぶん》使える。あわせて朝議で報告しよう」 「鳳珠——私、私はもう感激です」 「泣くな」 「あなたが秀くんたちのお仕事を増やした時は、鬼畜《きちく》、人でなし、この冷血仮面男と思いましたが、撒回《てっかい》します」 「……覚えておこう」  吹雪《ふぶき》のような声だったが、十年来の付きあいである景柚梨はまったく動じなかった。うきうきと話を続ける。 「彼らはどこに配属されるんでしょうね。やっぱり吏部でしょうか。でもどちらか一人は絶対回してもらってくださいね」  黄尚書は反応のよめない沈黙《ちんもく》ののち、軽く溜息をついた。 「……どうだかな。さあもう準備をしろ。今日が勝負どころだ」      *** 「お嬢様《じょうさま》、起きてください」 「ふぇ……?」  揺《ゆ》り起こされ、秀麗はぼーっと目を開けた。そして頭がはっきりした途端《とたん》、跳《は》ね起きた。 「ぎゃあ! 何時っ? いま何時ー!? いやー間に合わないっっ」 「終わってからお眠《ねむ》りになったんです。大丈夫《だいじょうぶ》ですよ。すべて主上のもとへお届けしました。あとはお嬢様がお行きになるだけです。充分間に合います」 「え? え? そ、そう……だったっけ?」 「そうです」  いつ寝《ね》たのか、その記憶《きおく》さえない。必死で首をひねって昨夜のことを思い出そうとする秀麗の前に、静蘭が小箱を置いた。 「胡蝶さんはちょっと出かける用があるとかで、見送りできないことを謝ってました。あとこれを。胡蝶さんの言付けでお邸《やしき》からもってきました」  差し出された美しい細工の小箱のなかには、化粧《けしょう》具一式が入っていた。これは胡蝶がくれたものだ。及第前にお祝いだからともらったけれど、ずっとしまっておいたもの。 『化粧は女の戦装束《いくさしょうぞく》』  美貌《びぼう》の妓女《ぎじょ》の口癖《くちぐせ》を思い出す。小箱を開けると、小さな紙片が折りたたまれて入っていた。  ひらくと、胡蝶の流麗《りゅうれい》で簡潔な文字が姿を見せた。 「————」  秀麗は微《かす》かに笑うと、久しく手にとっていなかった化粧具をとりだしはじめた。 「……あのね。お化粧した女の子って、何が何でも泣けないんですって」  小首を傾げる静蘭に、構わず秀麗は話し続けた。 「どんな薄《うす》化粧でも、泣いたらものすごい顔になるの。だから、死んでも泣けないときも、女の子はお化粧をするんだって、胡蝶|妓《ねえ》さんが言ってた」  それが、戦装束。一歩も退けないときにまとう女の鎧《よろい》。しゃんと顔を上げつづけるための。 「でも私、お化粧できなかった」  綺麗《きれい》に装うのは秀麗だって好きだ。でも政事《まつりごと》のなかでは不要なものに思えた。男だけの世界へ飛び込んだとき、より差異を際立《きわだ》たせるものに見えたから。  だからせっかくの贈《おく》り物も封印《ふういん》していた。 「間違《まちが》ってたわ。お化粧しようがしまいが、私は変わらないのに」  認めてもらいたいのは、女性の部分を含《ふく》めた秀麗自身。男と同じになるなんてどだい無理だし、なるつもりもなかったはずなのに。  けれど女性ということ自体を否定されつづけていると、簡単に忘れてしまう。忘れてはいけないことを。決して間違ってはいないこと。貶《おとし》められる理由など何一つないということ。 『女であることを、忘れないで』  胡蝶の短い一文が、それを思い出させてくれた。  女であることに誇《ほこ》りをもちな。男と同じ舞台《ぶたい》に立っても、男になるんじゃないんだよと、胡蝶は言ってくれたのに。 「お化粧、していくわ。泣きたい時はきてくれって静蘭は言ってくれたけど、私は泣かない」  静蘭は微笑した。今の彼には、その言葉を真正面から受けとめることができた。 「わかりました。では私は、お嬢様が泣かなくてすむように、支えることにします」  蕾《つぼみ》は、開きはじめている。  大切に守り育てたかけがえのない花は、自らの力でほころびはじめた。  それでもまだ、この花を支え、見守ることは許されている。彼女のそばで吹《ふ》き荒《あ》れるだろう嵐《あらし》や吹雪から、楯《たて》となり、剣《けん》となって守ることはできる。そして静蘭は選んだのだ。 「……静蘭は、私のほしい言葉がなんだってそういつも簡単にわかるの?」  この花のそばにありつづけようと。そう遠くない未来《さき》、きっと美しく咲《さ》くしなやかな野生の花を守るために。 「……お時間がせまっています。早くしないと、間に合わなくなりますよ」  にっこりと静蘭は笑った。  そばで眠り込んでいた影月が、むくむくと身を起こし始めていた。      ***  朝議は正午前にひらかれた。秀麗の件より先に片づけるべき案件があったからだ。査問会や噂《うわさ》のみの新進士国試不正|疑惑《ぎわく》の審議《しんぎ》などより、いきなり停止した城下、城内の機能回復のほうがはっきりいってはるかに重大かつ深刻だった。  そして開始早々、案件である城下の収拾策について会議は紛糾《ふんきゅう》した。 「前代|未聞《みもん》ですぞ」 「いくら紅一族とはいえ、やっていいことと悪いことが」 「どうなさるおつもりか。万一このままの事態が続いたら——」 「藍家に収拾を頼《たの》めば」  王の傍《そば》に控《ひか》える楸瑛に一瞬《いっしゅん》視線が集まるが、すぐに別の官吏によって却下《きゃっか》された。 「馬鹿《ばか》な! これ以上藍家の力を増大させるわけにはいかない」 「しかし他家にはこれをおさえる力は」 「いや、そもそも原因はなんなのか——主上!」  向けられた視線に、劉輝は落ち着き払《はら》って答えた。 「少し考えれば原因などすぐわかるのではないか? 聞き知っておろうが、紅吏部尚書がこのたび証拠もないのに言いがかりをつけられて拘束《こうそく》された。余もあずかり知らぬところで十六衛下部兵士を誰《だれ》かが動かしてな。即刻《そっこく》とりなしたが、何を言っても紅尚書自身が出てこぬ。この騒《さわ》ぎはそのせいだ。無理もないとは思わぬか? ——藍家と並ぶ名門中の名門、紅家当主を不当に拘束などすれば、紅尚書は勿論《もちろん》、誇り高い紅一族が怒《おこ》るのも道理」  しん、と水を打ったような沈黙がその場を覆《おお》った。 「紅尚書が……紅家当主……?」  誰かが潰《つぶ》れた声でうめいた。こぼれおちたのはそのひとつきりだったが、まったく同じことを心の中で呟《つぶや》いていた者は多かった。  その中で一人、滝《たき》のような汗《あせ》を流す人物がいた。なぜか邸を取り囲んでいた人相の悪い男たちに阻《はば》まれ、夜逃《よに》げに挫折《ざせつ》してこの場にくるしかなくなったこの男は、失神寸前の蒼白《そうはく》な顔色で、ことのなりゆきを見守っていた。 「……ふむ、意外に高官の中でも知らぬ者のほうが多かったのだな」  高官たちの反応に劉輝はやや驚《おどろ》いたように呟くと、傍《かたわ》らの絳攸を振《ふ》り返った。 「李|侍郎《じろう》は当然として、他に知っている者もあろう。どうか、黄|戸部《こぶ》尚書《しょうしょ》」  水を向けられ、仮面の尚書は黙《だま》って頷《うなず》いた。 「藍家直系に連なる者として、藍将軍も知っているのではないか?」 「ええ。黎深|殿《どの》に代替《だいが》わりした際の話は兄たちから聞いております」 「どうだ、霄太師?」 「そうですな、かれこれ十四、五年ほど前、でしたかな。彼が跡目《あとめ》を継《つ》いだのは」  白い顎髭《あごひげ》をしごきながら、飄々《ひょうひょう》と霄太師が応じる。それらの返答に室内の空気が徐々《じょじょ》に冷たくなり始めた。——ようやく、なぜこんな事態になったのか、彼らは心底理解した。  劉輝は視線をすべらせて、大机案の一角でじっと縮こまる人物を見つけると声をかけた。 「礼部の……蔡尚書は、どうだ?」  蔡礼部尚書は、なぜかふっくらとした顔に無数の脂汗《あぶらあせ》を浮《う》かべていた。 「ん? ずいぶんと震《ふる》えているようだが?」 「……い、いえ……その、あまりの事態に、驚いて」 「ということは、尚書のそなたも知らなかったのだな」  蔡尚書はひっきりなしに絹の手巾《てぬぐい》であせをぬぐった。 「は、はあ、まさか……と、とんと存じませんで……」 「——そうだろう。でなければとてもこんな愚《おろ》かな真似《まね》はできまい」  不意に鞭《むち》のように鋭《するど》くなった王の声音に驚いて、その場の誰もが蔡尚書を見た。 「とっ、突然《とつぜん》何をおっしゃいます。わたくしは別に何も——」 「別にそなたのこととはいっていないが」  蔡尚書は絶句した。絳攸は眉根《まゆね》を寄せると、こめかみをもんだ。あまりにも呆気《あっけ》なくボロを出した蔡尚書に情けなくなる。 「それとも何か身に覚えがあるのか?」 「い、いえそんなことは決して」 「そうか? そういえばそなたは当初から、女性官吏登用に猛《もう》反対していたな」 「ほとんどのものが反対していたではありませんか! だいたいそれをいうなら、あやしいのはむしろ——魯|官吏《かんり》ではありませんか!」  高位ではあるがたいした職にない魯官吏は、この朝議には出られない。それをいいことに蔡尚書はまくし立てた。 「いつだって彼は紅進士や杜進士にひどく当たっていたではありませんか! まるで目の敵《かたき》のように——特に紅進士に! きっと後見の紅尚書にも何か恨《うら》みがあって」  劉輝は落ち着き払って答えた。 「魯官吏? 彼は別に女人官吏に反対などしていなかったが。それに紅尚書に恨みがあるどころか、彼は珍《めずら》しくも紅尚書のお気に入りだ」 「は————?」  思考する暇《ひま》も与《あた》えず、劉輝はたたみかけた。 「それにそなたは新進士の一部が不当に酷使《こくし》されていたことを知っていたのに、配下を止めなかったのか。彩七家出身の碧進士のおりはいち早く庇《かば》ったと聞いているが」 「そ、それは、いつものことだと聞いております!」  その返事が何一つ理由になっていないことにも、もはや蔡尚書は気づかぬようだった。 「そうだな、いつものことだ。魯官吏が将来有望な者に特に目をかけるのは[#「特に目をかけるのは」に傍点]」  劉輝は支配者の顔で笑った。 「この場を見渡《みわた》してみるがいい。彼にしごきぬかれた者たちは、今どの席に座っている?」  思わぬ成り行きに驚いていた景|侍郎《じろう》は、はっと黄尚書を見た。——そういえば、そうだ。  紅黎深は吏部尚書に、黄|奇人《きじん》は戸部尚書に、李絳攸と藍楸瑛は年若くして高位高官、そして王の側近におさまっている——。  景侍郎は、黄尚書が仮面の裏で静かに笑っているのを確かに感じた。  離宮《りきゅう》の一角で、黎深は優雅《ゆうが》に茶器を傾《かたむ》けていた。くすり、と目の前の人物を見る。 「あなたは、私が相手でもまったく容赦《ようしゃ》がなかった。鼻っ柱を叩《たた》き折られましたよ」  城下、城内の騒動《そうどう》及《およ》び現在官吏があちこち血相を変えて駆《か》け回っていることなど知らぬげに——しかもその原因は彼——のうのうと瀟洒《しょうしゃ》な椅子《いす》で王族以上にくつろいでいる黎深に、魯官吏は滅多《めった》に変えない顔に眉間《みけん》の皺《しわ》を刻んだ。 「……折れるほどもろい鼻っ柱ではありますまい。それより紅尚書、いつまでここに——」 「気のすむまでです。魯官吏も、どうぞお茶を」 「茶なんぞより早く朝議へ行ってください。私と一緒《いっしょ》ならば行くとおっしゃったと使いから聞いたのでここへ来たんです。今城下城内がどうなっているか——」  泰然《たいぜん》と宮女たちから給仕を受ける黎深は、はっきりいって王以上に王らしい。 「どうなろうが知ったことではありませんね。私は国にも王にも何ら関心はない。大体、玉座に座ってるあの洟垂《はなた》れ小僧《こぞう》はもっと世の中の苦労というものを知ったほうがいいんです」 「………………あなたにだけはいわれたくないと思いますけどね」  いまだかつて「間違《まちが》った・悪かった・反省」の三語を使ったことがないという紅黎深こそ、少しは気苦労というものを知ってほしいと心底魯官吏は思った。特に今。 「とはいえ、私はつまらない嘘《うそ》はつきません。あなたと一緒なら朝議に参りましょう」 「ならお早く」 「座ってください。頑固《がんこ》で生真面目《きまじめ》なあなたとこんな風に過ごせる時はそうないのですから。行く前にゆっくりお茶をしましょう。昔話もしたいものです」  さすがの魯官吏もぷるぷると震えた。しかしそこは年の功。彼はひとつ溜息《ためいき》をつくと、黎深の向かいに座り直した。この倣岸《ごうがん》不遜《ふそん》唯我《ゆいが》独尊な紅家当主を朝議の場に引きずっていこうとするならば、彼のいうとおりにしたほうがいちばん早道だとわかっていた。  黎深は満足そうに香《かお》り高い茶をすすめた。 「毒など入っておりませんので、ご心配なく。まああなたが私に厩番《うまやばん》を命じた時は、もう頭にきて頭にきて何度|抹殺《まっさつ》しようかと思いましたが」 「…………そうでしょうな。私も何度殺気を感じたことか」  ためらわず茶に口をつけた魯官吏に、黎深は滅多に見せない本当の微笑《びしょう》を浮かべた。 「しなくてよかった。あなたの真意は、あとでわかる。そう——官吏になったそのときに」  若くて優秀《ゆうしゅう》な者ほど、朝廷《ちょうてい》にのみこまれやすい。大貴族の後押しがある者なら、それを笠《かさ》に着て堕落《だらく》しやすい。後押しのないものは派閥《はばつ》に取り込まれて傀儡《かいらい》となりやすい。 「あなたの厳しい指導は、自分への自信と、朝廷勢力への抵抗《ていこう》力をつけるため、そして新進士がどれほど優秀かを見せつけて、上になめられないようにしてくれる。だからあなたは一見厳しく理不尽《りふじん》なことを行う。私や奇人、鄭《てい》のときもそうでした。絳攸や藍楸瑛のときも」 「…………」 「一見|屈辱《くつじょく》的な仕事場も、官吏たちの真実を見聞きするのに最適だ。厠《かわや》掃除も沓磨《くつみが》きも、皿洗いも厩番も、官吏たちの真実をよく教えてくれる。ぽろっと気がゆるむ場所ですからね。私も厩番をしたおかげで官吏たちの弱みをもりだくさんに握《にぎ》れて今現在大変助かってます」 「……普通《ふつう》の新進士は、そこまでしません」  魯官吏は憮然《ぶぜん》とした。黎深はくすりと笑い、扇《おうぎ》を広げた。 「杜影月はあまりに若く、なんの後ろ盾《だて》もない状元。秀麗は若い上に女。どちらも最初からなめられ、つぶしにかかられるのは目に見えていた」  だから魯官吏は二人の有能さを示すために、公衆の面前で大量の仕事を任せ、それを見事《みごと》処理していく様を見せつけた。公衆の面前で手ひどく叱責《しっせき》することで、それでも食いついてくる彼らの姿を見せつけた。すべては、彼らを頭から侮《あなど》る官吏たちに認めさせるために。 「もしついてこられなかったり、賄賂《わいろ》を渡《わた》したりする進士には早々に見切りをつけて仕事の分配を減らす。厳しいですが、たたき上げるには確かなやり方です。朝廷最高官たちは、あなたが誰《だれ》にどれだけ仕事を振《ふ》っているかで未来の能吏か否かを判断する」 「……買いかぶりです」 「いいえ。あなたが私や奇人にひと言いえばいくらだって昇進《しょうしん》させられるのですが」  とことん肝《はら》を据《す》えることにしたのか、魯官吏はお茶のおかわりまでした。 「……私は今のままで満足しています。私のような者も、朝廷には必要であると先王陛下は直々に頭をお下げになられました。そして今また、そのご子息が私にすべてを任せるとおっしゃってくださった。国の主に、全幅《ぜんぷく》の信頼《しんらい》を置かれているのを知るのは、格別気持ちのよいものです。あなたのように教え子が偉《えら》くなるのを見るのも誇《ほこ》らしい」  魯官吏は静かに笑った。 「……今年は、未来に期待ができそうな年です。特に年若い進士たちは、足を引っ張り合うどころか、助け合う心を知っております。彼らが長きにわたり朝廷を支えていくのなら、とりあえず現王陛下の御代《みよ》は安泰《あんたい》でありましょう。ご即位《そくい》初めから、幸せなかたです」 「あなたのようなかたがいらっしゃることこそ、何より幸せなことです。何やら毎日こっそり置かれてある菓子《かし》やら肉まんやらお茶やらの運び手があなただと知った時は仰天《ぎょうてん》しました」 「……あなたは『なんだこのちんけな饅頭《まんじゅう》は』とぷりぷり怒《おこ》っておられた」 「ははは。……聞いてたんですか。でも、食べましたよ。この私に、ちんけな饅頭をもくもくと食べさせた人など、たった三人しかいませんよ。あなたはいつだって何も言わない。私から見れば貧乏《びんぼう》くじばかりの人生です」 「……ほっといてください」 「——主上も、長年のあなたの恩に報《むく》いるつもりでいます」  魯官吏はぎょっと顔色を変えた。思わず腰《こし》を浮《う》かせた初老の官吏を、黎《れい》深はむりやり引きずり戻《もど》した。にっこりと笑う。 「私と一緒に、これから朝議に出て下さるのでしょう[#「これから朝議に出て下さるのでしょう」に傍点]?」 「……わ、私は今の地位で充分《じゅうぶん》満足……」 「あなたが行かなければ、私も行きません。まあ私はそれでも別に構いませんが、もしそれで今度城下全機能停止[#「全機能停止」に傍点]になったら、あなたのことだから良心がうずくのではありませんか?」 「きょ、脅迫《きょうはく》するおつもりですか」 「脅迫? 人事の長としてより良き人材配置のため、当然の措置《そち》をとるだけです。あなたがあの名家至上主義つるっぱげデブかつ腹黒にも満たない腹灰色|尚書《しょうしょ》の下にいること自体、異常なんです。そもそも能吏が不足してるのに、余計なところに割《さ》く余裕《よゆう》なんてないんですよ」 「……………………………………し、新進士育成は別に余計なことでは」 「そんなにお嫌《いや》ですか? まあ確かに主上にあなたはもったいない。ああそうだ、我が家へきて家令になりませんか。あなたならあの生意気な弟の頭を叩いて性格|矯正《きょうせい》してくれそうです」  魯|官吏《かんり》は即座《そくざ》に折れた。この紅尚書の家令になるくらいなら。 「一緒に参ります……」  黎深は本気で残念そうな顔をした。けれど気を取り直し、優雅に立ちあがった。 「では、お約束通り、そろそろ参りましょうか」  扇をさらりとたたみ、黎深はゆったりと歩きはじめた。  蔡尚書は追い込まれながらも、いまだ窮地《きゅうち》を脱《だっ》そうと必死にあがいた。 「……で、ですが主上、わたくしは本当に何も……だ、だいたい、どんな理由があれ、王都の半分の機能をいちじるしく低下させた紅尚書の罪を問うほうが先ではございませんか」 「此度《こたび》のことは紅黎深が命をくだしたわけではない。第一、仮にも尚書の地位にある者を不当に拘束《こうそく》しておいて『どんな理由があれ』のひと言で片づけていいとでも?」 「それは」 「では別の話に移ろう。——黄尚書」  ひとつ頷《うなず》くと、黄|奇人《きじん》は立ちあがった。書写した書類を最高官たちに回していく。 「さて、ご覧ください。何かお気づきのことは?」  仮面ごしのくぐもった声が、静かに大堂に落ちる。戸部は国の財政を司る。出された書類は国費公費の収支に関する報告書だった。目を通した官吏たちの間から、やがてさざ波のようなざわめきが起き、それを代弁するかのように霄太師がにやにやと笑った。 「……ずいぶん、礼部からの無駄《むだ》な出費が多いのう」  黄尚書は頷いた。 「数年前より、礼部からは予算の増額を求められていました。けれど礼部にそれほどの出費がかかるとは思えません。このたびの新王陛下ご即位に伴《ともな》い、全面見直しをはかりました。出てきたのが、これです。無駄な出費というよりも、首を傾《かし》げる項目《こうもく》の出費が非常に多い」  立ちつくす蔡尚書の顔が紙のように白くなる。 「また興味深い報告もありました。毎年国試|及第者《きゅうだいしゃ》のために、礼部が無償《むしょう》で郷里報告の早馬を飛ばしております。今年も状元及第者の杜影月が俸禄《ほうろく》の銀八十両を丸ごと送ったそうですが、彼の郷里には一両も届いていなかったとか。これはどういうことなのでしょうね、蔡尚書?」 「……………早馬の使者が途中《とちゅう》で落としたか、盗《ぬす》んだのだろう」 「ほう。興味深いご意見です」  振り返った上司に応ずるように、景|侍郎《じろう》が木箱を取り出した。そこに入っていたのは。 「さてここに問題の銀八十両があります。例年のごとく状元及第者のために送られる、験担《げんかつ》ぎと祝福も兼《か》ねた今年最初の一号から八十号|鋳造《ちゅうぞう》新銀貨です」  蔡尚書は絶句した。 「戸部にはここ数年、俸禄を与《あた》えられた進士たちからの、郷里へ禄が届かない、また届いた額が送ったものより減っている、もう一度発行していただけないかという問い合わせが何件もきておりました。それもきまって礼部の早馬に託《たく》したものばかりが被害《ひがい》に遭《あ》っているのです。裕福《ゆうふく》な家の出の者が多いですから、なかには俸禄を抜《ぬ》かれたことに気づかず、また気づいても問い合わせをしなかった進士も多かったことでしょう。ですが、国庫から出されたものを不当に着服する輩《やから》がいるならば、見過ごすことはできません」  もともと年度と号をおさえられている新進土たちの俸禄を盗もうと思うのは、何も知らない小悪党だけだ。しかし小悪党の単発|仕業《しわざ》にしてはあまりにも被害が多くなってきていた。年ごとにずいぶん額が増えていることもおかしい。しかも闇市《やみいち》に流れた形跡《けいせき》もない。——外部の仕業と考えるより、内部の犯行と思うほうがつじつまが合う。そして。 「俸禄|盗難《とうなん》が増えはじめたのは、あなたが礼部尚書となったあたりからですね」 「…………」 「それで、今年は藍将軍の手の者を貸して頂き、それぞれ早馬を出した礼部官のあとを追って頂きました。たとえその者が懐《ふところ》にしまっても、とりあえずどこへ流れるのか見極《みきわ》めてほしいと。……さて、彼らは懐に金子をもったまま誰の邸《やしき》の門をくぐったと思いますか」  蔡尚書は大きな体を揺《ゆ》らして立ちあがった。 「——濡《ぬ》れ衣《ぎぬ》だ!!」 「私はまだ誰とも申し上げておりませんが?」  淡々《たんたん》と言う仮面尚書に、蔡尚書は口角|泡《あわ》を飛ばして喰ってかかった。 「ならば私も言わせてもらうぞ黄尚書! そなたこそその仮面は何だ。素顔《すがお》も見せられないような男が、どうして最高官までのぼりつめられた! いまだかつてそんなバカな話はない!」  黄奇人の「素顔」を知っている古参の官吏たちはぎょっと震《ふる》え上がった。動揺《どうよう》のざわめきを同意とはき違《ちが》えた蔡尚書は、ますます図に乗って黄尚書を責め立てた。 「どこの誰とも知れぬ者がその仮面ひとつで黄尚書になりすましているのではないと、誰が証明できる! そうだ、本物はお前が殺して入れ替《か》わっているのではないか? 何もやましいところがなければ、今! その仮面をとって素顔をみせてみるがいい!!」  空気が凍《こお》りついた。——その場の誰もが、彼が礼部尚書の地位についているのはまったくふさわしくなかったのだと理解した。蔡尚書は何もわかっていない。そしてわかろうともしなかったのだ。黄奇人のことも、紅黎深のことも、そして直属の配下であった魯官吏のことも。  黄尚書は仮面ごしでも聞こえるくらいの溜息《ためいき》をついた。 「……巷《ちまた》のへぼ小説並みの展開ですね。いいでしょう。別に私には何一つやましいところなどありません。そこまでおっしゃるのならとりましょう」  ためらいなく仮面の紐《ひも》に手をかけた黄尚書に、古参の官吏たちは総毛立った。そして即座に決死の形相で彼らはどっと奇人の腕《うで》にすがりついた。 「や、やめてください! お願いです私はもう妻と子を裏切るわけには!」 「わたしの平穏《へいおん》な人生をかき乱すのはもうよしてください〜!」 「この歳《とし》で、ここまで官位が上がったのにうっかり坊主《ぼうず》になりたくないです!」 「わ、わしは夏に生まれる初孫《ういまご》を見るまでぽっくり逝《ゆ》くわけにはいかんのじゃー!」  中年以上の高官たちがそこかしこでのたうち回る光景は、かなり異様だった。 「……な、なんだ? そんなにとんでもない顔なのか」  すっかり傍観《ぼうかん》を決め込んでいた劉輝は、両隣《りょうどなり》の側近たちに囁《ささや》いた。 「いや、黎深様は『飛んでる鴉《からす》も気絶してバラバラ落ちてくるような顔だ』としか……。だが実際面で覆《おお》うほどなのに、無理に外させてはあのかたの矜持《きょうじ》を傷つけることになるのでは」 「私も残念ながら知りません。でも別に黄尚書ほどのかたなら素顔がどうでも負要素にはならないと思うけどねぇ。私が言うのもまるで説得力がないが、男は顔じゃない」  奇人の素顔を知らない劉輝たちは真顔で頓珍漢《とんちんかん》な心配をした。  それを聞いた霄太師は大|爆笑《ばくしょう》した。宋|太傅《たいふ》も笑いをこらえすぎて顔が真っ赤だった。 「ぶ…く……そ、それほどまでいうのなら、面を外してみたらどうじゃ。ただし、全員うしろを向いて、蔡尚書だけに見せて差し上げるとよいじゃろう」  霄太師の言に、蔡尚書はムッとした表情をつくった。 「しかし、私は黄尚書の顔を知りません」 「知らなくても、本人とわかる。だからこそ仮面を許されておるのじゃ」 「余も見ていいか」  無《む》邪気《じゃき》に手を挙げた劉輝の案は、年嵩《としかさ》の官吏たちから一斉《いっせい》に却下《きゃっか》された。 「せっかく朝廷《ちょうてい》がまともに動きはじめたのに、また後宮にこもられてはかなわんからのう」  霄太師の言葉に、黄尚書の空気は一気に氷点下になった。瞬時《しゅんじ》に頂点に達した上司の怒《いか》りをもろに感じ、景侍郎は生きた心地《ここち》がしない。しかし霄太師の古狸《ふるだぬき》ぶりのほうが上だった。 「戸部尚書の顔を知らぬ者も、好奇《こうき》心に負けて振《ふ》り向かぬほうがよいぞ。よくて向こう三年はまともに仕事が手につかずに官位は下降の一途《いっと》。家庭ももてん。悪ければ正気を失う」  吹《ふ》きすさぶ殺気にまるで動じないばかりかここまで言ってのけた霄太師を、景侍郎はほとんど尊敬した。  そして見張り役を景侍郎に任せ、朝廷を支える一の老臣、霄太師の言葉に従って劉輝を含《ふく》めたほぼ全員が大人しくうしろを向いた。ただひとり、ひくにひけなくなった蔡尚書だけが、でっぷりとした腹と区別のつかない胸を反らして迎《むか》え撃《う》とうとした。  しかし、それも黄尚書が面を外すまでだった。  水を打ったように静まりかえった朝議の間に、かたりと仮面の外される音が響《ひび》いた。 「——さて」  そう黄|尚書《しょうしょ》が言った途端《とたん》、あちこちで悲鳴が上がった。 「しまっったぁあああ! 声を忘れてた————!!」 「ままま待ってください黄尚書! 耳栓《みみせん》、耳栓しろ—————っっ」 「うわぁ、柳官吏《りゅうかんり》が失神した————お歳を召《め》してらっしゃったから!」 「馬鹿《ばか》お前|介抱《かいほう》してる暇《ひま》なんかあるか! 我が身がかわいければ耳栓しろ!」  若い官吏をなぐって耳栓をさせる古参官吏が続出した。毒でも撒《ま》かれたような騒《さわ》ぎである。  景侍郎は引きつりつつその様子を眺《なが》め、次いで蔡尚書に目をやる。 (……あーあ、やっぱり‥…)  案の定、蔡尚書は自分の名前すら綺麗《きれい》さっぱり忘れたような顔をしていた。 「……さて、お気に召しましたか、蔡尚書」  この世のものとは思えない美声が響く。蔡尚書は呆《ほう》けたようにこくこくと頷《うなず》いた。  黄尚書はふと思いついて、紙と筆をとりあげた。 「あなたが、紅進士と紅黎深をはめた張本人ですね?」  こくこく。 「あなたは公金を横領し、昇進《しょうしん》のためにさんざん裏金ばらまいて、あげく、自分の罪を魯官吏になすりつけようとしましたね?」  こくこくこくり。  ——そうしてただの首振《くびふ》り人形と化した蔡尚書は、すべての質問に頷いた。 「さて、証言がとれた。柚梨、霄太師、宋太傅、あなたがたが証人です。地位も身分も信用もあるあなたがたなら、三人で充分《じゅうぶん》だ」  耳も目もふさがなかった免疫《めんえき》力のある稀《まれ》な三人にそういうと、さっさと仮面を装着する。  ひとり真面目な景|侍郎《じろう》は気の毒そうに首振り人形に視線をやりながら上司にもの申した。 「鳳珠、これって詐欺《さぎ》では……」 「全部真実だ。泥《どろ》団子事件の馬鹿どもからも証言をとった。何が詐欺だ」 「そ、そうなんですけど、なんだか詐欺のような気が」 「——いいや、最初からこうすれば良かったと思うよ、景侍郎」  不意に第三者の声が響いた。  朝議が終わるまではひらかれることのない扉《とびら》の重い開音に、誰《だれ》もがそろそろと振り返った。  そしてそこに立っていた二人の人物の姿に瞠目《どうもく》する。 「まったく、ここまで馬鹿とは思わなかった」  ゆったりとした足どりで堂々と入ってきた黎深は、蔡尚書に侮蔑《ぶべつ》の目を向けた。 「まさかこんなことを自ら言い出すとはな。鳳珠が仮面をかぶって許されているのは、誰一人《だれひとり》かわりなんかできるはずがないことを知っているからだ。第一、鳳珠に素顔のままそこらを歩かれてみろ。政事は即日《そくじつ》全機能停止だ。玖琅なんか目じゃない。誰も仕事に手なんかつかなくなるぞ。古参官吏は十年かかってようやく鳳珠の顔を思い出さないで仕事できるようになったというのに——魯官吏、なんだってこんなヘボ尚書に黙々《もくもく》と仕えてたんだい」  うしろに控《ひか》えていた魯官吏も、この成り行きにさすがに額をおさえていた。  まっすぐに蔡尚書のもとへ足を運ぶ黎深に、誰もが慌《あわ》てて道を譲《ゆず》った。波がひくようにできた道を至極《しごく》当然と歩く黎深には、たとえ紅家当主でなくともそれだけの力があった。  黎深はまっすぐに部屋を突《つ》っ切って、半分白目を剥《む》いている蔡尚書の前に立った。 「このまま茫然《ぼうぜん》自失じゃつまらない」  黎深はパン、と相手の顔の前で手を叩《たた》いた。ハッと蔡尚書の目に正気の光が戻《もど》る。 「い、今何かが——な、何かが」 「なんですか、蔡尚書」  蔡尚書は目の前に忽然《こつぜん》と現れた同僚《どうりょう》に青くなった。 「こ、紅——尚書」  黎深はにっこりと笑った。 「さて、あなたは非常に面白《おもしろ》いことをしてくださった。今回の捨て身の戦法には、まったく感嘆《かんたん》します。私も同じだけの熱意でお返しいたしましょう」 「い、いや、わ、私は、私がしたんではなくて……」 「百万が一そうでも、私はあなたがしたことと思っているので、事実は関係ありません」  無茶苦茶な理論である。 「この私をはめようとした度胸と頭の足りなさは認めます。数年前の一件だけで終わっていたなら、鬘《かつら》を引っぺがす程度で我慢《がまん》してあげたのですがね。性懲《しょうこ》りもなくあなたはまた私の大切な者の誇《ほこ》りを汚《けが》そうとした。私は二度同じ人物を許すほど寛容《かんよう》ではありません」 「ひ——」  いとも優雅《ゆうが》な仕草で、黎深は書状の束をとりだした。 「あなたの家産|一切合切《いっさいがっさい》、すべて紅家が差しおさえました。替《か》えの鬘ひとつ残っていません。この書状はご家族、ご親族、及《およ》び親しいご友人からの縁切《えんき》り状です。事情を話したら、どなたも快く、我先にと書いてくださいました。どうぞ大切になさってください。また今後、紅家ゆかりの場所には近寄らないのが無難でしょう。手配書を回しましたからね。見つかったら最後、近くの川に重しつけてドボンです」  この国で紅家の息のかからない場所などない。それを承知の上での脅《おど》しだった。 「うちの一族は私同様怒ると手がつけられない上、非常に執念《しゅうねん》深いので、百年|経《た》ってもあなたの名と顔は忘れませんよ」  おそろしい言葉を吐《は》いて、黎深はにっこりと笑った。  こわい。  自分のことでもないのに、会話にきき耳をたてていた諸官たちは背筋が寒くなった。  蔡尚書はがくがくと震《ふる》えだした。まろぶように跪《ひざまず》くともはや外聞もなく土下座した。 「も、もうこんなことは」 「あいにく私は、嫌《きら》いな相手はとことん追い落とす主義なんです」 「あなたが紅家の当主様と知っていたら——」 「そうですか。別に私が紅家当主でなくてもまったく同じことをしましたよ。まあもうすべては後の祭りなので、関係ないですね」  黎深の微笑《びしょう》はちらとも揺《ゆ》らがなかった。そして絳攸に聞こえないようにひんやりと囁《ささや》く。 「数年前、私の養い子を捨て子と馬鹿にしたくせに、官位があがった途端今度はさんざんまつわりついて不釣《ふつ》り合い極《きわ》まりない縁談《えんだん》をしつこくせまるとは、まったくあなたの面《つら》の皮の厚さをはかってみたいものです。あげく、あれに私がいちばん見たくない顔をさせるとはね。何を言ったか知りませんが、あのときから私はあなたを許すつもりはさらさらなかった」  そうそう、と呟《つぶや》くと、黎深は蔡尚書の鬘を引っぺがした。そこから転がりでたものに、劉輝たちはぎょっとした。——あ、あんなところに隠《かく》していたのか!? 「一応これも、頂いておきましょう」  それは茶家当主を証《あか》す指輪の贋物《にせもの》だった。見つけてすぐになくした「本物」のかわりにと、つくらせていた偽《にせ》の指輪だが、石や台座は本物の貴石でできている。何よりこれを茶本家にもっていけば、一生を楽に暮らせる謝礼が入ってくるはずだった。  何もかも奪《うば》われた今の蔡尚書にとって、文字通りその指輪は最後の命綱《いのちづな》だった。けれどそれさえも見抜《みぬ》かれ、あっさりと奪われた蔡尚書は今にも倒《たお》れそうなほど顔面|蒼白《そうはく》となった。 「これをもって茶一族に助けを請《こ》おうとしても無駄《むだ》ですよ。すでに手を回してあります。あなたとはなんの関係もないというお返事をいただきました。贋物ということも報せてあります」 「そんな!」 「あなた同様、あの一族は非常に選民意識が高いので、紅藍両家には扱《あつか》いやすくてね。ふふ、この私が、退路を一つでも残すとお思いですか?」  その冷酷《れいこく》な微笑で、蔡尚書は思い知った。  自分は、決して手を出してはならぬ人に手を出してしまったのだと。      ***  秀麗と静蘭は城門前で門前払《もんぜんばら》いをくらっていた。 「——お前など知らぬな。とっとと帰れ」 「し、知らぬって——ちょっと——私はれっきとした進士よ!?」 「お嬢様《じょうさま》、ここはひとつ殴《なぐ》って行きましょう」  静蘭が問答無用とばかりに指を鳴らした時だった。 「秀麗せんせー」  駆《か》け寄ってきた十いくつほどの少年を見て、秀麗は驚《おどろ》いた。道寺|塾《じゅく》の生徒の一人だった。及第《きゅうだい》してからは、とんと姿を見なくなってしまったけれど。 「え? あ! 柳晋《りゅうしん》!?」 「へへへ。こっちこっちー」 「や、あのね、今日ばっかりは遊んでるわけには」  引きずられつつ、顔を上げた秀麗は隠れるように待機していた柳晋の父親に驚いた。 「なあ秀麗せんせー、城に入りたいんだろ? 父ちゃん、いつも野菜届けてんだ。引き車にもぐりこんできなよ。そしたらはいれっから」 「……どうして……?」 「胡蝶ねーちゃんが、教えてくれたんだ。秀麗せんせー大変だから助けてやれって。——なあ、秀麗|師《せんせい》、オトナってめちゃめちゃ馬鹿《ばか》なのな。秀麗師はなんも変わってないのに、何もかも変わっちまったみたいにさ。俺、ずっと秀麗師と遊びたかったのに、駄目《だめ》だっていうんだぜ!? 行こうとすると閉じこめやがってさー。でも胡蝶ねーちゃんが、ばしっと怒《おこ》ってくれたんだ」  柳晋の父親はそわそわと、けれど意を決したようにはっきりと秀麗を見た。 「——すまねえ秀麗|嬢《じょう》ちゃん。なんか、どうしていいかわかんなくなってよ。官吏様ったら、偉《えら》い人だろ。なのに俺たちなんかと付き合ってると——ば、馬鹿にされんじゃないかって。嬢ちゃんに、肩身《かたみ》の狭《せま》い思いさせちまうんじゃないかって——」 「柳おじさん……」 「さあ、乗ってくんな。なかにも、まだ街のみんながそれぞれ待ってて、できるだけ奥に連れてくかんな! ほんと、すまねぇ」  秀麗の胸が熱くなる。泣きたかったけれど、今はそのときではない。静蘭は秀麗の手を引いて、野菜の間に置かれた隙間《すきま》にもぐりこんだ。そこになぜか柳晋も入ってくる。 「コラ馬鹿柳晋! 嬢ちゃんの邪魔《じゃま》すんじゃねぇ」 「いいじゃんよー。俺だってお城に入ってみたかったんだもん。こら静蘭、俺の秀麗師にくっつくんじゃねー。お嫁《よめ》にもらうのは俺なんだかんな!」  柳晋は割りこむように静蘭と秀麗の間におさまって意地でも出なかった。仕方なく、柳おじさんはそのまま引き車をひいてカタカタと城内に入っていった。  そして秀麗は、街の人たちの謝罪と久しぶりの笑顔《えがお》と一緒《いっしょ》に、城の奥まで進んでいった。 「——ごめんな秀麗ちゃん、オレたちに運べるのはここまでだよ。でもあとはあの兄ちゃんが一緒に行ってくれるって言うから」  最後、油壺《あぶらつぼ》の中からひょっこりとはい出した秀麗は、そこに憮然《ぶぜん》とした顔で立っていた少年に心底驚いた。 「珀!? な、なんでここに」 「どうせこんなこったろうと思ったから、迎《むか》えに来た。名ばかり貧乏《びんぼう》紅家出身のお前と違って、僕に甘い官吏《かんり》は多いからな。——連れてってやる」  珀明はまっすぐに秀麗を見た。 「お前のことは礼部官からあっというまに進士内に伝わった。ふん、馬鹿な、殿試《でんし》でのお前の答えを聞けば、不正をしたかどうかなんてすぐにわかる」  今でも、珀明はそのときのことをあざやかに思い出せる。  ——最終試験の殿試は、全進士がそろう中での上層部による対面式口頭試|問《もん》。 『なぜ女人の身で官吏になりたいと?』  王はそう問うた。  珀明はそのときの秀麗の答えを、その凜《りん》とした姿を、今もなおはっきりと覚えている。 『僭越《せんえつ》ながら、なぜ女の身でとお訊《たず》ねになられても、その問いの答えはもっておりません。私は、私ができることをしに[#「私ができることをしに」に傍点]きました。自分が男でも女でも、私は国試を受けました。官吏になり、この手で多くのものを守りたいと思っていました。だから国試を受けたのです——』  あのとき、彼は心から秀麗を認めた。女でも男でも、多分こいつには負けただろうと、納得《なっとく》できた。女なのになぜという問いは、本当に彼女には無意味だったのだ。 「自分ができることをしに[#「自分ができることをしに」に傍点]——お前自身で勝負をかけてきた奴《やつ》が、不正などするか」 「珀……」 「勘違《かんちが》いするな! 能なし進士しか残らなくなるのが気に入らなかっただけだ。いいか、査問会であがってヘマなんかしてみろ。絶対許さないからな。忘れるな、お前はこの僕を抜《ぬ》いて及第したんだ。どんな問いだって答えられるはずだ。——女子供ってだけで馬鹿にする能なし官吏どもに見せつけて、戻《もど》ってこい」  自分は本当に幸せ者だと、秀麗は心から思った。 「——わかった。斉《せい》おじさんも。ここまで連れてきてくれて本当にありがとう」 「おう、頑張《がんば》れよ! ほら柳晋、帰るぞ。親父《おやじ》さんがまってるだろうが」 「やだよ。秀麗師大変な時に見捨てて逃げるなんて男じゃねー」  てこでも秀麗から離《はな》れない柳晋少年に、秀麗は苦笑した。 「じゃ、一緒にいこっか。あなた一人くらいなんとかなる……」  不意に秀麗は顔を上げた。周りから、人相の悪い下《した》っ端《ぱ》兵士が集まってきていた。 「おや〜? よくここまできたなあ」  静蘭はすぐさま剣《けん》を抜いた。誰《だれ》の差し金かはわかっていた。しかし——とうしろの四人を見る。——四人を背後にかばって戦えるか!? 「……碧進士、腕《うで》に自信は?」 「碧家は詩文、芸能に長ける家だ。唯一《ゆいいつ》の例外かつ中央政事|掌握《しょうあく》を目論《もくろ》む初の天才が僕だ」  武芸などとんと縁《えん》がないと堂々と胸を張った珀明に、静蘭はがっくりとした。 (せめてもう一人いたら——)  不意に、兵士の囲みの一角が崩《くず》れた。うしろから吹《ふ》っ飛《と》ばされた兵士たちが泡《あわ》を吹いて昏倒《こんとう》する。剣——ではなかった。これは——。 「おお? 久しぶりだなー姫《ひめ》さん、静蘭。良かったぁ。オレ道に迷ってたんだよなー」  鮮《あざ》やかな棍《こん》さばきで兵士たちをなぎ倒していく男に、秀麗と静蘭は仰天《ぎょうてん》した。 「このままじゃお城からでられねーから、道案内して? 時間はたっぷりあるから、姫さんのお供するくらいは軽いぞー。あ、なんでこんなとこにってのはだなー、あとで聞いて?」  半年ぶりとは思えないくらい軽いノリで、浪《ろう》燕青はにかっと笑ったのだった。      ***  蔡|尚書《しょうしょ》は、黄尚書が有無《うむ》を言わせぬ手段でおさえた証言もあり、即刻《そっこく》縄《なわ》についた。  彼に荷担した者が次々と捕《と》らえられ別室に連れていかれたが、それで捕り物は終りではなかった。蔡尚書だけはいまだその場に残された。 「さて蔡尚書、そなたには余罪があったな。何度も紅進士と杜進士を殺そうとした」  物騒《ぶっそう》な単語に、蔡尚書はびくりと反応した。 「証拠《しょうこ》はいくらでもある。最初の集合時、書状の時刻を故意に変えられたのは、最後の確認《かくにん》印を押す尚書のそなただけだ。また毎日の昼食《ちゅうじき》で、礼部から出される折詰《おりづめ》、その箸《はし》の部分に毒をぬりつけて渡《わた》していたな。事情を話し、杜進士が毎日、何食わぬ顔をして箸をぬぐい、念のためと毒消しの茶を飲ませていたから無事だったが。また、府庫での膨大《ぼうだい》な量の書輸《しょかん》、あれに皮膚吸収型の毒を染《し》みこませた書状を毎日数十枚ひそませた。これも、杜進士が選別して書写、処理し、秀麗に付着した毒素をぬぐってくれていた。杜進士は医者になりたかったそうでな、薬物に強いのだそうだ。杜進士は毎日、余に現物の証拠を提出してくれている。その書状の中身を見れば、どこの部署で、誰の最終印が押されているかは明白。まああの二人は気づいていたようだが」  劉輝は手元の書翰を取り上げた。 「さきほどの黄尚書が用いたこの証拠書類を作成したのは、紅進士と、杜進士だ」  ざわり、と声があがる。 「……あの、細かい数値を、ですか? だいたいなぜそんなことを」 「書翰の整理や、予算確認の検算でおかしいと思ったそうだ。魯官吏がひと月後に提出させるはずだった自由課題を、その指摘《してき》にしようと二人で資料をそろえていたと。だが昨日紅進士が不当な言いがかりをつけられたことで、なんとか釈明《しゃくめい》の一助になればと徹夜《てつや》で仕上げて黄尚書に提出した。二人は誰が不正をしているか、ちゃんと気づいていたわけだ、蔡尚書」  蔡尚書は肩《かた》を震《ふる》わせた。 「……が悪いんだ」 「は?」 「女など入ってくるから悪いのだ! そうだ、すべてはあの小娘《こむすめ》が官吏面でノコノコと入ってきた時から、全部|狂《くる》いだしたんだ」  蔡尚書は狂ったようにわめきだした。 「確かに不正の噂《うわさ》は私が流した。だがおかしいとは思わないのか!? 突然《とつぜん》降ってわいたような女人受験に、十七の小娘が探花|及第《きゅうだい》だと!? 国試はそんなに甘くない! 才子といわれる者たちが毎年ボロボロ落ちてくのが国試だ。不正などしていないと思うほうが無理だろう! それに後見は紅黎深だ。紅家当主となればどんな道理もひっこむだろうが!」  誰もが蔡尚書を見限りつつあったなか、この言葉は多くの官吏の胸に響《ひび》いた。  ——それは誰もが心の奥に秘めていた思いだったからだ。  国試制が始まってから、各官吏は及第のために血の滲《にじ》むような努力をした自分を覚えている。  それを、十七の娘が軽々と探花及第を果たしたのだ。 「王と側近が、女人受験制を強行に推進した。それだっておかしいだろうが!」  一人の官吏が頷いた。 「……主上、私も、そう思います。正直なところをお聞かせ願いたい。実力でなければ、認められません。それこそが先王陛下が国試を導入したいちばんの理由であったはずです」  そうだ、と口々に声が上がる。 「そうだな、実力主義が国試だ。だから先王は王でさえ介入不可能[#「王でさえ介入不可能」に傍点]な国試制度をつくった」  劉輝の静かな声に、ハッと誰もが口をつぐんだ。 「それは、国試を突破《とっぱ》してきた者がいちばんよくわかっているのではないか? どれほど国試の公平性が厳しく、どんな不正も許さないか。身をもって体験してきたはずだ。それに国試を司る礼部の尚書が、ここまで女人官吏を嫌《きら》い、追い落とそうとしていたのに、かなわなかったのはなぜか? ——できなかったからだ。そう、国試は甘くない[#「国試は甘くない」に傍点]」 「——秀麗師はズルなんかしねぇ!」  不意に、扉《とびら》がひらいた。何事かと視線が向く中、そこから小さな少年が真っ赤な顔をして蔡尚書に突進《とっしん》した。柳晋はボカリと蔡尚書のハゲ頭を殴《なぐ》った。 「このハゲじじい! 秀麗師は、秀麗師はなぁ、いつだってこのお城にあがってお仕事したいって言ってたんだ。だから俺…さ、寂《さび》しいけど我慢《がまん》したんだ! もう師が塾《じゅく》開いてくれなくても、二胡《にこ》聞けなくたって、我慢するって決めたんだ。秀麗師がいなくっても、勉強なんて嫌いだけど、これから師追っかけてちゃんと勉強して俺もいつか官吏《かんり》になって、大好きな秀麗師に会いに行くって決めたんだ。なのに、なのに秀麗師をいじめるなよハゲ! なんにも知んないくせに、勝手なことばっかり言いやがって! ほんとにお偉《えら》い官吏なのかよ!」  それは、どの言葉よりすべての者の胸を打った。恥《は》じたように幾人《いくにん》もの官吏がうつむく。  柳晋は、あとから入ってきた秀麗のそばに駆《か》け寄った。 「秀麗師、帰ろうよ! こんなとこにいる必要ないじゃん。みんな秀麗師バカにして——俺、俺|悔《くや》しいよ。なあ帰ろうよ。り、リソウとゲンジツは違うってやつだよ」  秀麗は、この一年で驚《おどろ》くほど背が伸《の》びた教え子を抱《だ》きしめた。 「……柳晋。ありがとう、本当にいい子ね。でも帰れないわ」 「なんで!?」 「だって私の夢はここから始まるんだもの」  誰もが、秀麗を見つめた。秀麗はにっこりと笑って少年の頭を撫《な》でた。 「ね、柳晋、あなた、昔死にかけたのよ。覚えてないでしょうけど」 「……覚えてないけど、母ちゃんから聞いた。きゅ、九年前に王様の息子が喧嘩《けんか》して、そのせいで食べるもんもなんもなくなったって」  官吏たちは一斉《いっせい》に息を呑《の》んだ。それは今や口に出すことさえ禁忌《きんき》となっていた。 「そうよ。私は——何一つできなかった。あなたは幸運にも生きのびてくれたけど——たくさんの死を見たわ。診療《しんりょう》所でお手伝いしても、やっぱり何一つできなかった。ただその死を看取《みと》っていくことしか。でも、これからは違う」  秀麗は周りの官吏を見回した。そして最後に劉輝を。 「私は、官吏になりたいと思った。上のせいでこんなことが起こったのなら、私が上にのぼってやると思った。王の隣《となり》にあがって、誰《だれ》かが馬鹿《ばか》なことしでかしかけたら即刻《そっこく》頭ひっぱたいてでも方向修正して、——もう、二度と、こんなこと起こらせるもんかって思った。それが、私が官吏になりたいと思った理由。そして、官吏をやめるわけにはいかない理由。だって、私はまだ何一つ成《な》していないもの」 「……なんだ、秀麗師が俺にいつもやってることと同じじゃん」  あっさりと指摘されて、秀麗は笑った。 「そうね。でも私は今いちばん下《した》っ端《ぱ》だから、道は遠いわ」 「大丈夫《だいじょうぶ》だよ。だって父ちゃんと母ちゃんが喧嘩してもいっつも母ちゃんが勝つもん。男って、サイシュウテキには女に弱いって父ちゃんこぼしてたもん」  身に覚えのある官吏たちが、一斉に視線を逸《そ》らす。楸瑛が吹きだし、劉輝が真顔で頷《うなず》いた。 「見事《みごと》だ。あの歳《とし》ですでに真理を会得《えとく》している」  柳晋は、目尻《めじり》にたまった涙《なみだ》を乱暴にぬぐった。 「秀麗師は、これから頑張《がんば》るんだな」 「そうよ。これから——一生」 「いいよ。俺も頑張るもん。いじめられたら言えよ。いつだって飛んでいって、殴ってやる」  劉輝は秀麗に声をかけた。 「紅進士。ちょうど正午だ。そなたの進士及第を疑う者のためにこれより査問をひらくが」  撤回《てっかい》しようとした官吏たちを見据《みす》え、秀麗は深く跪拝《きはい》して、はっきりと言った。 「どうぞご随意《ずいい》に」 「わかった。では場所を移そう。新進士たちも呼べ。疑いのある者は位にかかわらず誰でも傍聴《ぼうちょう》可とする。公開口頭試問ならば、不正も何もしようがないだろう」  劉輝はその場にいる官吏を見回した。 「好きなだけ、確かめるがいい。彼女が国試及第を果たしたのは、不正か否か」  秀麗はこっそりと柳晋に囁《ささや》いた。 「あなたも見てなさい。秀麗師のかっこいいとこ、見せてあげるわ」  そして彼女は顔を上げた。  その顔を見て、劉輝は少し悲しそうに笑った。  彼女は見事くぐり抜《ぬ》けるだろう。多くの問いに、よどみなく答え、この場の官吏の度肝《どぎも》を抜き、そして認められるだろう。  そのあとは。  劉輝は目を閉じた。 [#改ページ]    第七章 新人事  翌日から、秀麗を見る目は一変した。査問への出席を許され、彼女の能力を間近で見た同期の進士たちも、何一つ陰口《かげぐち》を叩《たた》かなくなった。  上官がことごとく抜けたために繰り上がって急遽《きゅうきょ》、新札部|尚書《しょうしょ》となった魯官吏だけは、この進士たちの教育は自分が任されたのだからと、相変わらず容赦《ようしゃ》なくこき使ってくれた。  査問会当日、なぜか城にもぐりこんでいた燕青はいつのまにやら姿を消していた。しかし翌日夕暮れ、ひょっこりと邵可|邸《てい》に現れた。 「また出かけるまで居候《いそうろう》さして?」  にかっと笑った燕青に、秀麗は呆《あき》れ果てた。しかしこの神出|鬼没《きぼつ》の男にはもはや何でもありなんじゃないかと思いつつあったので、結局何も訊《き》かなかった。  邸《やしき》に招き入れた燕青は、以前と同じく実にするりととけこんだ。 「そっちのちっこいのが今度の状元かぁ。うーん、すげぇ。どんな頭してるんだ?」  まるで我が家のように椅子《いす》でくつろぐ燕青に、いつものように夕餉《ゆうげ》の支度《したく》を手伝っていた影月は慌《あわ》てて手をぬぐうと丁寧《ていねい》に頭を下げた。 「は、初めまして。杜影月です」 「お、いいアイサツだなー。俺は浪燕青。よろしくな」  開口一番「帰れ」と一閃《いっせん》のもとに斬《き》って捨てた静蘭は、それでもしぶとく居座り態勢を決め込んだ燕青をじろりと睨《にら》みつけた。 「お前、居候のくせに夕餉の支度も手伝わないつもりか?」 「え、手伝ってもいいけどさ、俺野戦|菜《りょうり》しかつくれねーぞ? ちまちま玉葱《たまねぎ》きったり鍋《なべ》かきまわしたりっての、かなり苦手なんだけど、それでもいーなら」 「役立たずの大食らいタダ飯《めし》居候とはいちばんタチ悪いな」 「邪険《じゃけん》にすんなよー静蘭。危急の時にカッコ良く助けに入ってやっただろー? 皿洗いとか力仕事とかならちゃんとやるからさー」  そして燕青は忙《いそが》しく立ち働いている秀麗を見て嬉《うれ》しそうに笑った。 「それにしても姫《ひめ》さん、頑張ったな。探花|及第《きゅうだい》なんてすげーじゃん」 「へへ。ありがと。あ、そうだ。あなたのほうはどうだったの? 準試、受けたの?」  中央官への登竜門《とうりゅうもん》である国試と違《ちが》い、準試は地方官になるための試験である。燕青は茶州州官を目指していたが、途中《とちゅう》で受験をあきらめたと秀麗は聞いていた。当時、受験さえ不可能だった秀麗にとっては本当に贅沢《ぜいたく》でもったいない話だった。けれど、どんな心境の変化があったのか、最後に燕青は準試を受けると秀麗に告げたのだ。それからどうなったのか。  すると燕青は不敵に笑った。 「ふっふっふ。よくぞ聞いてくれました。無事茶州準試及第したぜ」 「おめでとう! すごいじゃない。やったわね」 「おう、こんなに勉強したの生まれて初めてだったぞー。なな、順位聞いてくれよ」 「あ、さては良かったのね。何位?」  燕青はふんぞり返って堂々と言った。 「ケツから二番目」 「……………………………………」  鼻高々な当事者以外、その場の全員が沈黙《ちんもく》した。 「なな、すげぇだろ? 俺絶対ケツだと思ってたのにさー俺より馬鹿がいたんだぜ!?」 「……お嬢様《じょうさま》、影月くん、馬鹿がうつったら大変です。どこかにこの男捨ててきましょう」  静蘭は即刻ずるずると燕青を室から引きずりだそうとした。 「ひでー静蘭。姫さんに昔のことばらしちまうぞ」  口をとがらせて椅子にしがみつく燕青に、しかし今回ばかりは静蘭もひるまなかった。囁き声で燕青に詰《つ》め寄る。 「……というかお前、よくもそんな順位で長年州牧なんかやってられたな? お前わかってるか? 茶州長官てのは従三品、つまり正四品《せいよんぴん》上の李|侍郎《じろう》より官位が高いんだぞ。各州州牧ってのは近いうち中央に戻《もど》って各省庁長官になることを約束されたも同然の地位なんだ。なのに国試どころか準試で下から二番目だと? ふざけてんのか?」 「え。俺ってばあの朝廷随一《ちょうていずいいち》の才人ちょっとおもしろお兄ちゃんより偉《えら》かったんだ。すげー。だって実務にゃ詩とか歌とか必要ねーじゃん。悠舜《ゆうしゅん》も一生|懸命《けんめい》教えてくれたんだけどさー、なんか右から左に抜けてくんだよなー」 「お前には一生必要ない無駄《むだ》な知識だからな。動物的本能で拒否《きょひ》したんだろう。たく、あの鄭悠舜に必死で叩きこんでもらってようやく下から二番目とはな。教え子のもとが悪いと師がどんな鬼才《きさい》でもむだだといういい証明だな」  現在茶州州牧の補佐《ほさ》である鄭悠舜は、紅黎深及び黄|奇人《きじん》と同期で、彼らを抑《おさ》えて状元及第したという伝説の人物である。足が悪いという一点をのぞけば冷静で穏《おだ》やかな文句なしの鬼才であり、茶州に志願しなければ今頃《いまごろ》宰相《さいしょう》となっていてもおかしくないとさえいわれている。 「うわ、ひでー。受かりゃ良いんだよ受かりゃ。ケツでもアタマでも同じ官吏《かんり》じゃん」 「アタマで受かった官吏に、下から二番目がもと茶州州牧だったと言ってみろ。世をはかなんで即刻《そっこく》坊主《ぼうず》になるぞ」 「あっはっは。お前、口悪くなったなー」  ぎくりと静蘭は口もとを覆《おお》う。——そうかもしれない。 「なんかお前、元気そうでほんと良かったぜ」 「……は?」 「だってお前さ、もとが性格悪いじゃん。口悪いときって、大概《たいがい》元気な証拠《しょうこ》だからさ」 「…………よりにもよって単細胞《たんさいぼう》生物に性格|分析《ぶんせき》されたくない」  その様子を少し離《はな》れたところで見守っていた秀麗と影月は、顔を見合わせた。 「あんな静蘭さん、初めて見ましたー」 「でしょ。燕青にだけはあんな風なの。仲良しよね。……もうちょっと早く遊びに来てくれたら、静蘭がなんだか悩《なや》んでたことももっと早く解決したかもしれないのに」  くすくす秀麗が笑っていると、燕青がふと顔を巡《めぐ》らせた。 「あ、そうだ姫さん」 「何?」 「俺、今回は連れがいるんだけどさ、もし良かったら会ってやってな」  燕青はにかっと笑った。      *** 「うわーすげぇ良くできたニセモノ」  査問会の終わったその夜、燕青は劉輝に呼ばれて執務《しつむ》室にいた。その場には劉輝以下、三師|及《およ》び絳攸と楸瑛、そして黄尚書と紅尚書だけがいた。  開口一番|贋物《にせもの》と断じた指輪であるが、それを見つめる燕青の目には感嘆《かんたん》が浮《う》かんでいた。 「こっちの、あのカツラじーちゃんが慌ててつくってカツラの下に隠《かく》してたってやつ? これはかなりひでぇ出来だけど——これ、こっちはものすごい出来だなぁ。やばかったな。茶本家に渡《わた》ってたら誰《だれ》もが信じ込んだぞ」 「——やはり、ニセモノか」  劉輝はちらりと霄太師を見たが、霄太師はいかにも飄々《ひょうひょう》としていた。——読めない。 「茶州は、いまどうなってる?」  燕青は居住まいを正した。もとが武官のような風貌《ふうぼう》と体つきなので、そうすると楸瑛にも負けないくらい見栄えがよく見える。 「——現在、悠舜……鄭|補佐《ほさ》が監禁《かんきん》状態に置かれてます。また故鴛洵さまの奥方、縹英姫様も、お邸の奥で見張りがつけられ、自由がままなりません。鴛洵様のたった一人のご孫娘《そんじょう》である春姫《しゅんき》様は、英姫様の機転で辛《から》くも難を逃《のが》れ、現在|某所《ぼうしょ》にて匿《かくま》われています」  一年前よりさらに厳しくなった状況《じょうきょう》に、劉輝の眉《まゆ》が寄った。 「——何があった」  燕青が夏をやや過ぎて茶州へ戻った時には、まださほど情勢は変化していなかった。思った通り勝手に茶州州牧を解任されてはいたが、行く前とさほど変わってはいなかった。そのあとも戻った燕青と師匠《ししょう》が州城に出没《しゅつぼつ》して睨みをきかせていたせいもあるだろう。事態が一変したのは、新年を迎《むか》えて少したった頃《ころ》からだ。 「茶一族は春の新人事に思い至ったんです。新王陛下初の新州牧が派遣《はけん》されてくる。茶州にも陛下の周りを固めつつある能吏たちの噂《うわさ》は届いています。俺が夏に貴陽にたどりついたことも耳に入っていますし。能吏が来る前に、なんとか先手を打ちたかったんでしょうね」 「茶|太保《たいほ》の奥方と孫娘をとらえるのが?」 「今でも、彼らは鴛洵様の影響《えいきょう》力に怯《おび》えているんです。一粒種《ひとつぶだね》だったご子息夫婦は何年も前に他界されましたが、大奥様とご孫娘はご存命です。そして大奥様は、……えーと、まったくお見事なかたで」  縹英姫を知っているらしい霄太師と宋|太傅《たいふ》が、なぜか冷や汗《あせ》を流しつつ視線を交《か》わした。 「鴛洵様|亡《な》き後、大奥様は一切《いっさい》茶家内部に関《かか》わろうとしませんでした。が、あのかたが本気になったら、茶家をとりまとめる力は、まだ充分《じゅうぶん》あります」 「縹英姫|殿《どの》が?」 「ええ。鴛洵様が太保として紫州にいらっしゃる間、茶州で茶家当主名代として、ノコノコ出てくる杭《くい》を片《かた》っ端《ぱし》から打ちまくって見事お役目を果たされていたのが誰あろう英姫様で」  燕青の微妙《びみょう》な歯切れの悪さに、霄太師と宋太傅はなぜか遠い目をした。 「ですが、鴛洵様が亡くなられたあと、もうどうでもよいとおっしゃって、すべてから手を引いたんです。結果、ノコノコとまた杭が出てきまして。ですが彼らも、大奥様の政治|手腕《しゅわん》にはかなわないということは、この数十年でよくわかってます。つまり鴛洵様に向けていた畏怖《いふ》と同じものを、彼らはいま英姫様に向けているんです。それで新州牧がきて、大奥様とつなぎをとることを警戒《けいかい》した」 「だから閉じこめたと?」 「はい。大奥様はどうでもいいって感じでしたけど。くわしいことは命がけで窮状《きゅうじょう》を訴《うった》えにきた、英姫様づきのあの娘《むすめ》に聞いてください。嘆願《たんがん》書も、ここに」  懐《ふところ》から書状を取り出す燕青に、劉輝は渋《しぶ》い顔をした。 「しかし鄭補佐まで監禁されるとは。そなたがいながら、なぜ」  腑《ふ》に落ちない表情の劉輝に、燕青は頭をかいた。よほどきまりが悪いのか、王を前にしておきながら急に砕《くだ》けた口調になる。 「それが悠舜のやつ、自分から監禁場所つくって入っちまったんです。自分は足が悪いから逃げてもたかがしれてるし、最初から監禁されてればこれ以上悪いこともないし、だいたい配下の官吏を放って逃げるわけにもいかないから、室で仕事しますっつって……あとから鼻息|荒《あら》く州府にきた茶一族の連中も、あれーすることねーなー、みたいな」  今度は鄭悠舜と同期にあたる紅黎深と黄奇人が、王の後ろで黙《だま》って顔を見合わせた。……いかにもあれがやりそうなことだ。 「まあ、もともと茶州の官吏はこれ以上悪くなりようがない場所で文字通り命|懸《か》けて官吏やってましたから、今さら逃げる官吏もいません。悠舜が最終決裁の補佐印もって、自分で色々もちこんで居心地良くつくった�監禁室�にこもったあげく、鍵《かぎ》を火にくべて溶《と》かしちまったんで、俺が塔の壁|這《は》いのぼって窓から仕事届ける毎日で、もう鍛《きた》えられまくりです。……あの室に入ってから、準試の勉強見てもらうにも一苦労だったなぁ……。はっきりいってあれ登れるの俺か師匠くらいなんで、茶一族もいまだに補佐印に手が出せません。なんせ最凶悪犯《さいきょうあくはん》用|牢屋《ろうや》なんで格子《こうし》も壊《こわ》せないし。あ、いま悠舜と城見てるのは師匠なんで身の危険|皆無《かいむ》ですけど」  劉輝はさすがに唖然《あぜん》とした。……最凶悪犯用牢屋? 「……確か、鄭補佐は、落ち着いて物静かで達観したかただと聞いていたが」 「ええ。そうですよ。でもそれだけじゃ命懸けて茶州に志願しないでしょう。ただの物好きなら半日で逃げ出してます。あれで根性《こんじょう》あるし、やるときはむちゃくちゃやる男なんです」  黎深と奇人は思わず吹《ふ》きだした。的を射ている。 「なんで茶州府の権限はまだ悠舜|及《およ》び茶州官たちに握《にぎ》られてます。俺の師匠が城内うろちょろしてくれてるんで、彼らの命の心配はありません。——問題は、茶家当主に誰かが就いた場合です。この贋作《がんさく》指輪の原型のほう——茶家当主を示す指輪を、誰もが血眼になって捜《さが》していました。鴛洵様亡きこの貴陽がいちばん怪《あや》しいんですが——一年、見つからなかった。ここへきて見つかったとなれば、茶本家が大金ばらまいても飛びつくのは当たり前です」  ただ、と燕青は視線を落とした。 「もうすぐ、鴛洵様が亡くなられて一年です。まる一年を経過しても当主印が見つからなかった場合、仮の当主を立て、新たな当主印をつくることが許されてます。あれは当主を示す以上に、最終決裁印も兼《か》ねてますから。あれがないと茶家独自で展開している様々な最重要事業の最終決裁もおりません。そうなると、茶家とは関係のない民《たみ》にとばっちりが行きます。仮とはいえ、本物が見つからなければいずれそれが本物の当主及び印となるでしょう。変な奴《やつ》に当主の座につかれでもしたら厄介《やっかい》この上ない。茶州での茶一族の権限は絶対ですから、悠舜の奴も押し切られかねない。対抗《たいこう》できるとしたら、主上の意を受けた正統な州牧だけです」 「わかってる」  劉輝は大官たちを見回した。 「まずそなたらの了承《りょうしょう》を得たい。余の推薦《すいせん》する茶州州牧について、否のある者は?」  無言が、答えだった。  燕青は、ふと証拠《しょうこ》の品々のひとつである絵巻物を取り上げた。広げると、父親似にふくよかで、控《ひか》えめに言っても金のかかりそうな女性が、全身を飾《かざ》り立てて笑っている。女性のはめている指輪は。 「カツラじーちゃんが李|侍郎《じろう》さんにもってきた縁談《えんだん》かぁ。それにしてもいやーほんと、笑える家族だな。こんなに堂々と娘につくりかけのニセ指輪をガメられて、気づきもしないで似姿までかかせて李侍郎さんにもってくんだもんなー。これじゃしょっぱなから自分が黒幕でーすっていってるようなもんだよなー」      *** 「……あー、ちょっと、今回はやりすぎじゃないかい……?」 「だからあなたは甘いというんです」  手際《てぎわ》よく柑子《こうじ》の皮を剥きながら、紅|玖琅《くろう》は吐《は》き捨てるように言った。 「自分の娘までバカにされたというのに、よくもへらへら笑っていられますね」 「いやいや、君や黎深が私以上に気にかけてくれたから、心配しなくてすんだんだよ」  のんびり切り返す邵可《しょうか》は、はっきりいって見ているだけでイライラする。 (どうしてこれが長兄なのか)  物心ついてからというもの、何百回何千回思ったかしれない。 『だからお前は馬鹿《ばか》だというんだ、玖琅。お前は兄上のことを何もわかっていない』  不意に黎深の言葉が蘇《よみがえ》る。次兄にだけは、馬鹿だと言われても玖琅は反論しなかった。この世でただ一人、自分を超《こ》える人だと思っているからだ。だから玖琅は出来損ないの長兄を追い出し、亡き父の遺言を継《つ》いで黎深を紅家当主に迎えた。そしてこの十余年、黎兄上は紫州からとはいえ見事な舵取《かじと》りをしてみせた。 (……けれど、本邸《ほんてい》に戻《もど》ることはなかった)  出奔《しゅぽん》した邵可を追いかけて紫州に出てしまった黎深は、昔からこの長兄を異常なほど慕《した》っていた。玖琅にはこの唐変木《とうへんぼく》のどこがいいのかサッパリわからなかったけれど、それを口にするたびに、黎深はいつだって得意げに言ったものだ。 『まあ、お前はわからなくてもいい。兄上は、私だけの兄上だからな』  腹立たしい。 「……どうせ」 「ん?」 「どうせ私は、邵兄上のことなど何一つ知りません」  柑子を頬《ほお》ばりながら、邵可は苦笑《くしょう》した。 「何、ふてくされてるんだい」 「私がですか? まさか」 「ふてくされてるじゃないか。眉間《みけん》に皺《しわ》が寄ってる」 「いつものことです」 「いやいや、これは、赤ん坊《ぼう》の頃《ころ》むずがってたときの寄り方と一緒《いっしょ》だ。なつかしい」  玖琅は絶句した。邵可は構わず皿の上に綺麗《きれい》に剥《む》いて置かれた柑子をぱくぱくと食べた。 「玖琅は相変わらず器用だね。不器用な私と、倣岸《ごうがん》不遜《ふそん》な黎深を兄にもったせいで、ひとりでなんでもできるようになってしまって。なんていうんだったかな……そうだ、器用|貧乏《びんぼう》だ」 「貧乏? この私のどこが貧乏です」 「俗語《ぞくご》だよ。なんでもできるのにちっとも得をしない。黎深と違《ちが》って真面目だから、他から頼《たよ》りにされると貧乏くじだって引いてしまう。……ひかせたのは、私だけどね」  邵可は楊枝《ようじ》を置いた。 「……私が、長子の役目を放りだしたせいで、父の期待はすべて君にかかることになってしまった。黎深はあの通りわがままで、父の言うことを聞くような子じゃなかったしねぇ」 「……あなたの言葉だけはよく聞いてました」 「うーん、まあね。でも私は君が生まれて少しした頃に城へ出させられて、それからほとんど紅州に帰れなかった。……君には寂《さび》しい思いをさせてしまったね」  無能とはいえ一応紅家長子である。王都へ出せば何かしら役立つ伝《つて》はつかんでくるだろうと、父は少年だった邵可を遊学の名の下に単身紫州へ送った。当時国の情勢が悪化していたことを考えれば、役立たずの長子がどこかで殺されることも期待していたのかもしれない。  けれど邵可は死ななかった。そして城で——先王の下で彼がしていたことは。 「別に。あなたのようなぬけた兄を毎日間近に見ることがなくて幸いでした」  仏頂面《ぶっちょうづら》で言った玖琅に、「そうかもしれないね」と邵可は笑った。  細い目を優《やさ》しく和《なご》ませる長兄に、玖琅は遥《はる》か昔を思いだした。  いつだって長兄は両親や親族からバカにされていた。お前は弟たちと違って何一つ満足にできないと。気概《きがい》も、自覚も、能力も、何もないと。  それでもこの長兄は笑っていた。優しい微笑《びしょう》は曇《くも》らなかった。  ——自分たちは満足に笑うことさえできなかったのに。あの邸《やしき》に生まれて、ただ一人、どこかで優しい笑い方を覚えて失わなかった。あの黎兄上の心をつかんだ唯一の人。  ごめん、と邵可は呟《つぶや》いた。 「君には、たくさん苦労をかけたね。ずっと——謝りたかったんだよ」 「今さら——」 「うん、今さらだね。謝っても何が変わるわけでもないし」 「——あの邸には、もう、私一人なのに——」  ぐっと唇《くちびる》をかみしめた玖琅の頭を、邵可は昔のようにそっと撫《な》でた。 「疲《つか》れたら、いつでも放りだしてここへおいで。君は真面目《まじめ》だから、いつだって考えすぎる。ここまで紅家のことを考えてくれたんだ、もう充分《じゅうぶん》だよ。——ありがとう」 「……私は、あなたが嫌《きら》いです。本当は黎兄上と同じくらい自分勝手だ」 「そうだね……でも、私は君が好きだよ」 「追い出したのは、今でも正解でした。あの家にいたら、あなたはきっとつぶれていた」 「玖琅……」 「でも、義姉《あね》上《うえ》が亡くなった時にこの邸で起こったことを止められなかったのは、今でも後悔《こうかい》しています」  親族がつけた見張り役としての使用人たち。大切な人を失って茫然《ぼうぜん》自失していた兄たちから禿鷹《はげたか》のようにむさぼり、すべての金品、義姉の形見さえ持ち逃《に》げしていった。 「……君は遠い紅州にいたんだ。誰《だれ》でも万能《ばんのう》じゃない。それに私がぼけっとしてたせいだし」 「だからこそ、私や黎兄上が見ていなくてはならなかったのに」  自分たちができたことは、すべてが終わったあとに使用人たちを残らず捜しだし、死ぬほうがマシだという生《い》き地獄《じごく》をみせて殺したうえ、それぞれの親族に見せしめのために削《そ》いだ耳やら目玉やらを送りつけたことくらいだ。 「いいんだよ。すべてを失ったわけじゃない。それにいちばん大切なものは、誰にも奪《うば》えないところにあるから」 「……ごめんなさい……」 「ああ、それをいうために、君はここへきたんだね。……あの家にいちばんふさわしくないのは、多分、君だよ玖琅。君は優しすぎる。君に、あの家を任せるべきではなかった」  玖琅は黎深と違って、自分がしてきたことを知らない。あの邸で、もっとも汚《よご》れた手をしている自分を。紅州を留守にしていた間、自分が何をしてきたか。  似ているのだ。自分たち三人は。こうと決めればおそろしいほど冷酷《れいこく》になれる。大切なもののためなら何をも切り捨てられる。そして感情の制御《せいぎょ》を完壁《かんぺき》に行える。自分は、両親も末の弟さえ欺《あざむ》いてきた。——三人の中で、玖琅がいちばんまっすぐで優しかったのに。  いちばんつらいところに放り出したまま、ここまできてしまった。  しかしそれを聞いた玖琅はむっと顔を上げた。 「——それはどういう意味です。この私があなたより劣《おと》ると?」 「え? いや、その」 「馬鹿にしないでください。邵兄上に同情されたら終わりです」 「……………………ご、ごめん」 「なぜすぐに謝るんです! まったく紅家長子がそんなに軽々しく頭を下げて」 「ごめ……え、えと」 「——家を放りだすことなんかできません。ここにきたのだって、絳攸と秀麗のためです。いずれ絳攸を養子として正式に紅|姓《せい》を継がせ、秀麗を娶《めと》らせて紅家を継がせます。あの黎兄上が手塩にかけて育てた子。それに調べによると、女|嫌《ぎら》いだというのに秀麗に対しては態度が違うそうではありませんか」 「よ、よく知ってるね」 「紅家存続の危機ですからね」 「でも、その話はもう少し先になるだろう」  静かに、邵可は言った。玖琅は柑子の皮を剥く手を止めた。 「……行かせる気ですか」 「あの子はきっと頷《うなず》く」 「馬鹿な、死ぬかもしれなくても?」 「死なないよ。それだけの手を主上は打ってくださる。きっと君も、黎深もね」  ——そして、自分も。その言葉を口には出さずに、邵可は続ける。 「私は秀麗の結婚《けっこん》に何一つ口を挟《はさ》むつもりはないよ。絳攸|殿《どの》は良い青年だ。反対なんかしないよ。でも、最終的な決定は秀麗自身に任せる」  玖琅は溜息《ためいき》をついた。 「……あの娘《むすめ》は、紅家|長姫《ちょうき》です。王の后妃《こうひ》にさえなれる娘です。その事実は、何があっても変わりません。今まで秀麗の世界は、この小さな邸で守られていた。けれどこれからは違う。官吏《かんり》として権力|闘争《とうそう》のただ中へ行く。狼《おおかみ》の前に子羊を放りだすようなものです」 「その前に、絳攸殿とくっつけろと? そうだね、そういう守り方もあるかもしれない。でもね、嫁《とつ》いだら最後、それを理由に退官|騒《さわ》ぎが起こることをあの子も本能的に察している。だからたぷん、今は首を縦には振《ふ》らないよ。——大丈夫《だいじょうぶ》。秀麗には強力な羊飼いがいるから」  本当は、もう一つの可能性にも邵可は気づいている。朝廷《ちょうてい》のほうが娘を必要とするようになった時、きっと妃《きさき》を娶らない王の妃候補として、間違いなく秀麗の名があがってくる。  ——けれどそれも、秀麗が決めることだ。  心配してくれてありがとうと笑う長兄に、玖琅はそっぽを向いた。 「秀麗の任命の日まで、いてくれるだろう? 本当はお祝いにきてくれたって知ってるよ」 「私はそんなに暇《ひま》じゃありません」 「行っちゃうのかい」 「別にそんなことはひと言もいってません」 「あ、じゃあ室を用意するね。秀麗に紹介《しょうかい》もしないと」  いそいそと立ちあがった長兄に見られないように、玖琅はわずかに笑った。      ***  その日、秀麗はこれが最後になるであろう進士服に袖《そで》を通した。  髪《かみ》を結い上げ、薄《うす》く化粧《けしょう》を施《ほどこ》し、秀麗は鏡をのぞいた。そして次に昊《そら》を。  目に染《し》みるほど青い昊が広がる、晴れた日だった。  秀麗を含《ふく》む各進士は、広間にずらりと居並ぶ主立った朝廷百官を見て戸惑《とまど》った。 「……おかしいな。いつもなら吏部で、吏部|尚書《しょうしょ》から官位と辞令を受けると聞いたが」  珀明が首をひねった。 「そうよねぇ。私もそう聞いたわ。これじゃ国試|及第《きゅうだい》の時みたいじゃないの」 「まあいい。さて、どこに行かされるんだか。僕は絶対中央だな」 「僕は、できれば地方がいいですー。秀麗さんは?」  中央|掌握《しょうあく》の野望を堂々と宣言した珀明は、確かに中央のほうが似合っている。森より木を見て、一つ一つ気にかけるような影月は、地方向きなのだろう。そして自分は。 「どこでもいいわ。どこだって、やることは同じだもの」  ——どこに行っても、秀麗の見据《みす》える先は変わらない。  そこへ、魯尚書が入ってきた。 「あ、魯官吏……とと、魯尚書」 「構わぬ。どちらでも同じだ。今年度、陛下の御代《みよ》初の進士及第者上位二十名のそなたらは、特別に陛下御自ら官位と辞令を授けられる」  ざわ、と進士たちがどよめいた。  そのなかで、魯尚書は珍《めずら》しく笑って秀麗を見た。 「——紅進士の言葉は、真実だ。たとえどんな官位、どこの地へ飛ばされようとも、君たちがするべきことは何一つ変わらない。官吏とはなんのために存在するのか——それを常に自問しなさい。そうすれば、何をなすべきか自ずと見えてくる」  銅鑼《どら》が、鳴る。魯尚書は踵《きびす》を返した。 「さあ、これが、官吏としての君たちの始まりだ」  次々と、新進士たちに官位と辞令が与《あた》えられていく。ある者は泣き、ある者は震《ふる》える足どりで受けとっていく。 「——碧珀明。そなたを、尚書省吏部下官に命じる」 「はい」  尊敬する絳攸が在籍《ざいせき》する吏部に任じられ、いつもは自信満々な珀明の声もかすれた。 「そなたが吏部尚書に提出した、官位|及《およ》び職官の再編成の論は余も読ませてもらった。なかなか興味深い論だった。——吏部尚書及び吏部|侍郎《じろう》の目に留まっての、引き抜《ぬ》きだ。吏部は厳しいが、それだけにやりがいもあろう。魯尚書からうけた報告では、充分《じゅうぶん》耐《た》え抜けるはずだ。期待している」 「——謹《つつし》んで、お受けいたします」  任命の巻書と吏部下官用の飾《かざ》り紐《ひも》を、珀明は押し戴《いただ》くように受けとった。 「——最後、杜進士、及び紅進士。前へ」  二人一度の唱名に、広間に戸惑ったようなざわめきが満ちる。  呼ばれた二人も驚《おどろ》いた。ちらりと視線を交わすと、ともに前へ進み出る。そして——。 「今年度、状元及第者、杜影月。及び探花及第者、紅秀麗。そなたら両名を、茶州州牧として任じる」  はっきりとした王の言葉に、広間に驚愕《きょうがく》が充《み》ち満ちた。しかしもっとも驚いたのは、誰《だれ》あろう当人たちだった。秀麗と影月は、今自分が聞いたのが幻聴《げんちょう》か否《いな》かを確かめようとお互《たが》いの顔を見合わせた。 「しゅ、主上! いったい——こんな新米にいきなり各省庁の長《おさ》に次ぐ官位の州牧を任せるなどいったい何をお考えです! しかも二人一度になどと——」 「それぞれ半人前だから、二人|一緒《いっしょ》でちょうどいいと思ったのだ」 「ちょ、ちょうどいいとは——」 「ではそなたが茶州州牧として参るか」  声を上げた官吏は口をつぐんだ。 「では、他に我と思うものは? 最高官は行きたくても行かせられぬが」  誰一人、手を挙げる者はいなかった。  劉輝は溜息をついた。 「では、誰にしろというのだ? 前茶州州牧を決めるまでも相当の悶着《もんちゃく》があった。そして結局、国試及第を果たしてもいない無名の若者を送り出した。けれど彼は補佐《ほさ》のもと、今までになくよくおさめてくれた。官位も経験も何もなくても、彼は茶州州牧としての任を果たした」 「そ、それは、あの才子、鄭官吏が補佐としていらっしゃったからで」 「それは確かに大きいだろう。ゆえに今回も補佐をつける。新長官二名ゆえ、補佐も奮発して二名だ。一人は茶州に着任中の鄭補佐を据《す》え置きで、もう一人は——浪燕青、前へ」 「はい」  突然《とつぜん》の名に、秀麗と影月は仰天《ぎょうてん》した。——燕青!?  燕青は官服を窮屈《きゅうくつ》そうにゆるめながら、いかにも軽い足どりで進み出た。呆気《あっけ》にとられている二人を見て、いつもどおりの笑《え》みを浮《う》かべる。 「そなたをもう一人の茶州州牧補佐として任じる。前茶州州牧であったそなたなら、この二人を良く導いてくれるだろう。二人と同行し、茶州へ参れ」  秀麗と影月は目を点にした。……今、何か、すごいことを聞いたような。 (……え? 前茶州州牧ってナニ? 聞き間違い? そもそも何でここに燕青が……)  秀麗が全然まわらない頭を必死で働かそうとする間も、何やら話は進んでいく。 「謹んで拝命いたします」 「お、お待ちください。確か彼は準試にさえ及第していなかったのでは」 「今年及第した。地方官の資格はもった。ただちょっと人より飛び級出世しただけだ」  出世しすぎです! という悲鳴がいくつも上がる。 「……しかしな、彼にはれっきとした実績がある。もっとも困難とされた茶州州牧として何年も勤め上げたその手腕《しゅわん》は、ただの地方官におさめられるものではない。また彼は昨年夏、戸部臨時|施政《しせい》官として黄尚書のもとで見事《みごと》に勤めあげたと聞いている。確か任命書もあったはずだ。中央官庁の施政官さえこなせる能力を持つ者を、そこらに転がしておくなど人材の無駄《むだ》だ」  燕青はこそばゆいというように頬《ほお》をかいた。——これで、実は茶州準試をケツから二番目及第といったらどうなるかなー……などと思う。 「大体州牧でも誰も行きたがらないのに、補佐で行こうという者が他にいるのか? 朝廷三師及び四省六部の長官、副官たちにはすべて内諾《ないだく》を得た。他に何かいうことがある者はいるか」  最高官たちが内諾したというのだから、もはや口を挟《はさ》める官吏《かんり》などいなかった。  静かになった広間を見渡《みわた》し、劉輝はひとつ頷《うなず》いた。 「——そして茶州という特区ゆえ、特別に彼らには専属の武官をつける。※《し》[#「くさかんむり/此」]静蘭《せいらん》」 「はい」 「白大将軍からの要請《ようせい》通り、そなたを彼ら専属の武官とする。身分上右|羽林《うりん》軍に特進とするが、羽林軍に縛《しば》られぬ自由権限を与える。その権限は州将軍を凌《しの》ぐものとする。ともに茶州に赴《おもむ》き、新州牧たちの輔《たす》けとなるよう。そして」  その言葉に、白大将軍はいかにもムスッと顔をしかめた。その隣《となり》で、滅多《めった》にしゃべらない黒大将軍がボソリと呟《つぶや》いた。 「……見事に逃《に》げられたな、雷炎」 「るせぇっ。ちくしょう、肩書《かたが》きだけ右羽林軍だと? 野郎《やろう》オレをはめやがって!」 「……聞いてやるぜといったのはお前だったんだろう。先に話を聞かないからだ。まんまとうまいところだけもっていかれたな」 「く、くそ。燿世《ようせい》てめぇ、今日はやけに口数が多いじゃねーか」 「あの名剣《めいけん》を久方ぶりに間近で拝めるようだからな。興奮しているのだ。見ろ——」  劉輝は二|対《つい》の剣をとりだした。それを見て、控《ひか》えていた武官たちが一斉《いっせい》にどよめいた。 「�干將《かんしょう》��莫邪《ばくや》�……!」  それは長い間|封印《ふういん》されていた双剣《そうけん》。国宝というべきその宝剣を先王から下賜《かし》されたのは、かつて文武ともに随一《ずいいち》と謳《うた》われた、清苑公子。 「……余の敬愛する兄がもっていた、双子《ふたご》剣だ。同じ石からつくられた�干將�と�莫邪�——二つとも与えられたのに、清苑兄上は余に�莫邪�をくださった」  いつだって命の危険があった末弟のために。惜《お》しげなく宝剣の一|振《ふ》りを兄はくれた。 「そのときはあまりに幼くて、持てもしなかったがな」  それでも、その剣のそばにいるだけで、不思議と守られているような気がした。兄が残してくれた、たった一つのカタチのある思い出。寂《さび》しい夜にはこの剣のそばで眠《ねむ》り。そして宋将軍に剣を習ったあとは、誰一人寄せ付けることなく。そしてずっと待っていた。眠りつづけるもう片方の使い手が現れる時を。それは祈《いの》りにも似た願いで。  双《ふた》つで一つの剣。片割れだけでは、意味がない。そう思った時から封印していた。けれど。 「……この�莫邪�は私の宝。そして清苑兄上がお使いになっていた片割れの�干將�を、そなたに。これはそなたにふさわしい」  それは�花�を贈《おく》るのと同等以上の意味があった。名もなき一衛士に、とざわめきが起こるも、両羽林軍上将軍たちが無言で頷くのを見て、誰もが静かになる。  静蘭は小さく笑った。——あの幼かった弟が、自分の心をはかるようになったとは。  かつて公子の自分がもっていた剣。今の自分が佩《は》いている飾りもの同様の剣ではなく、人を斬《き》るためにつくられた名剣。——そう、自分は再び剣をとることを決めた。もはや飾りものでは意味がない。それでは大切な人のそばにはいられない。劉輝はそれを無言で示したのだ。 「謹んで、拝受いたします」  一衛士にしては完壁《かんぺき》な物腰《ものごし》に、高官たちの一部は瞠目《どうもく》した。わずかに何かを思い出しかけるも、続く劉輝の言葉に霧消《むしょう》する。 「さて、最後、杜進士と紅進士に訊《き》く。官吏たちの反応通り、茶州は危険区域だ。そなたらの身を守るため、あらゆる手を打つつもりではあるが、絶対の保証はしない」  秀麗と影月は顔を上げた。 「それでも、州牧として行ってくれるか。断っても、勿論《もちろん》構わぬ」 「——行きます」  二人は異口同音に答えた。そして顔を見合わせ、小さく笑う。 「謹《つつし》んで、お受けいたします」  うちそろった礼に、劉輝は笑おうとして、失敗した。 「では、任命書|及《およ》び官服、茶州州牧の佩玉《はいぎょく》と、印を授ける。さすがにこればかりは二つつくるわけにいかなかった。それぞれ、一つずつもつがよい。二人そろっての州牧ということだ」  静まりかえるなか、秀麗が印を、影月が佩玉を受けとった時、前代|未聞《みもん》の二人の同時州牧が誕生した。 「そして、もう一つ余からの贈り物がある」  劉輝は飾《かざ》り台の上に残った二つの小箱を、新州牧たちの前に置かせた。 「余からの�花�を、そなたら二人に」  さっきを上まわるどよめきが起こった。今まで�下賜の花�を受けとったのは、ただ二人。李|侍郎《じろう》と、藍将軍の、のちに�双花菖蒲《そうかしょうぶ》�と謳《うた》われる二輪のみ。彼らはわかるが——まだ何一つ功のない新米官吏に、これは異例のことだった。次期|宰相《さいしょう》候補とまで言われる尚書《しょうしょ》二人でさえ、まだ贈られていないというのに。  箱の中に入っていたのは、佩玉につける飾り玉だった。  それに施《ほどこ》されていた�花�に、秀麗も影月も目を見ひらいた。 「�蕾《つぼみ》�……?」  その意表をつく�花�に、誰《だれ》もが驚《おどろ》いた。劉輝はひとつ頷いた。 「意味は�無限の可能性と、希望�。そなたらがこれからどのような�花�を咲《さ》かせるのか、楽しみにしている。その蕾が見事�咲いた�折には、今度こそ満開の�花�を贈ろう」  気づく者は、気づいた。この�花�の真意に。  それは王としての祝福と期待の表れだった。そして難事が山積する茶州へ赴く二人に対する公然たる守護の証《あかし》。この二人はいずれ王を——国を支えるべき者であるという意思表示。才ある二人の若者への、それは小憎《こにく》らしいほど気の利いた祝福の仕方であり、この二人を害する者は王の敵であるという意味がこめられていた。  秀麗と影月は頭《こうべ》を垂れた。 [#改ページ]    終章  秀麗は夜の庭院を散策していた。脳裏《のうり》に午の出来事が蘇《よみがえ》る。  正式に官位を拝命したあと、絳攸は秀麗を呼び止めた。お前に会いたいという者がいる——と。ふと、この間燕青がいっていたことを思い出した。 『……どなたですか?』 『……その前に話しておかねばならないことがある。一年前の件についてだ』  秀麗は瞠目した。絳攸ははっきりと言った。 『お前は官吏だ。もう、守られるべき者ではない。だから話す。——聞くか』  話すと言いながら、絳攸は選択《せんたく》を迫《せま》った。  誰もが隠《かく》し通そうとした。秀麗を守るためにそれが最善だと。それだけのことだったのだ。  知らないでいい真実もあるだろう。今までの秀麗はそうだった。けれどこれからは違《ちが》うと絳攸は無言で告げていた。  知る権利がある、と。選ぶのは秀麗だった。  深く息を吸った。——答えは決まっている。 『聞きます』  自ら守られるべき立場を放棄《ほうき》した。どんな真実でも、秀麗は受け入れるつもりだった。  守るほうを選んだ、それが秀麗の精一杯《せいいっぱい》の誠意だった。  微《かす》かに、絳攸は笑った。 『そうか。面会人については、そのあと、お前の判断で会うか会わないか決めろ』  そして絳攸は、静かに口火を切った。  それは——その話は。 「……秀麗」  不意にそばで聞こえた声に、物思いにふけっていた秀麗は驚いた。いつのまにいたのか、夜の闇《やみ》にまぎれて劉輝が立っていた。どことなく、いつもと違う気がしたのは、月の光が反射して劉輝の表情がよく見えなかったからかもしれない。 「ど、どうしてこんなとこに?」 「配属が決まったら話がしたいと、以前言ったぞ」 「ああ」 「……何を考えていた?」  いつもの劉輝からは考えられない鋭《するど》い問いだった。秀麗ははぐらかそうとして——やめた。それもまた、いつもとは違っていた。 「——香鈴と、会おうと思うの」  さくり、と劉輝が草を踏《ふ》んで近づいてきた。 「私、本当に何も知らなかったのね。香鈴や茶|太保《たいほ》のことも、燕青のことも」 「……絳攸に聞いたのか」 「うん。……考えて、考えて、考え抜《ぬ》いたわ。ものすごく迷って悩《なや》んだ。でも、知ってしまったからには、知らないふりして耳を塞《ふさ》いでいるわけにはいかない」 「秀麗……」 「許すとか、理解するとか、そんなことじゃなくて。私を求めているのに、人任せにはできない——ってことだけで、今はまだちゃんとどうするかとかはわからないんだけどね」  自分を殺そうとした相手でも、彼女は等しく思いを受けるのだ。  劉輝は、彼女の官吏《かんり》としての姿が見えた気がした。何を見ても聞いても、彼女はきっと逃《に》げ出さない。誰が相手でも、たとえ自らの位がどれほどあがったとしても。変わらず一つ一つ話を聞き、誠実に答えを返し、道を選び——望みの階《きざはし》をあがってくる。 「私、香鈴が好きだったわ」  うつむいた秀麗の頬《ほお》に、はらりと髪《かみ》がこぼれかかる。劉輝はそっと梳《す》きやった。 「秀麗——香鈴の手口は、はっきりいって見え見えだった」 「……見え見えでも、どうせぜんっぜん気づかない鈍《にぶ》い女だったわよ」 「じゃ、じゃなくて。見え見えすぎて、秀麗に気づかれないよう片づけるのが簡単だったのだ。彼女は毒杯《どくはい》をもってきていながら、室の銀杯を片づけなかった。毒にしても、発見のしやすく、かつ即効《そっこう》性の致死《ちし》毒はなかった。充分《じゅうぶん》手当てができる時間のあるものをいつも選んでいた。だいたい、こっそり殺そうとする者が、寝台《しんだい》裏に呪《のろ》いの藁人形《わらにんぎょう》なんかくっつけると思うか? いかにも誰かが狙《ねら》ってますと宣伝しているようなものではないか」 「……ダレかさんは堂々とひとんちに藁人形送ってきたけどね」 「あ、あれは愛の藁人形なのだ。ではなく——香鈴は、迷っていたのだと思う」 「…………うん」  秀麗も、うぬぼれてもいいなら、香鈴に少しは好かれていたと思う。  それでも。悩んでも、迷っていても。彼女は引き返せなかった。  それほどの想《おも》いは、今の秀麗にはわからない。わかりたくないのかもしれなかった。  あまりにも強い想いは、他の大切なものをすべてかき消してしまうような気がして。 「秀麗」 「ん?」 「余も、今回は、とても迷った」  まっすぐに、秀麗を見つめる目は、彼女の知らないものだった。 「本当は、茶州になど行かせたくなかった」  溜息《ためいき》と同じような囁《ささや》きだった。 「そなたは、余がどんな思いで名を書き入れたか、わかるまい」  何度も何度もためらった。たった三文字を入れるのに、幾晩《いくばん》もかかった。  空白のままの欄《らん》に、絳攸は厳しく言った。 『秀麗は、あなたのために官吏になったのではありません』  そんなこと、わかっている。けれど自分は、自分だけの秀麗でいてほしかった。  でもそれでは、劉輝はいちばん大切なものを失ってしまう。  このときほど、劉輝は自分が王であることを恨《うら》めしく思ったことはなかった。そして王であることを放棄できない自分に。  待つことは苦痛ではないはずだった。かつて兄を待っていたように。十年以上、会えなくても、片時も忘れずに。  それでも、これは違う。心臓をわしつかみにされたようなこの痛みは。 「本当は、余のそばにいてほしかった」 「あなたはもう私なんかいなくても、充分やっていけるわ。そうでしょう? 絳攸様や藍将軍がいるだけじゃないわ。……悔《くや》しいけど、今のあなたには私は必要ない」 「——違う!」  不意に荒《あら》げた声に、秀麗は驚いた。 「何度も、言った。余は、そなたが好きだと。その意味を?」  秀麗の胸が鼓動《こどう》を打った。この人は、誰——。この大人の男のような顔をした人は。  不意に、右|腕《うで》をつかまれる。秀麗はびくりとした。 「余の下ではない、隣《となり》に、いてほしいという意味だ」  秀麗は必死で息を吸った。いつもは普通《ふつう》にしていることが、こんなにも難しい。 「……できないわ」 「わかってる。今は、そこまで望まない」  今は、という言葉に秀麗は驚く。本当に、彼は劉輝なのだろうか。 「でも、覚えておいてほしい。余は、そなた以外、娶《めと》るつもりはない」  この、強い言葉は。激しい声は。誰《だれ》のもの。 「——あ…りえないわ」 「なぜ?」 「妃《きさき》になんか、なれない。私が目指しているのは、違うものよ」 「秀麗。余が好きか?」  嫌《きら》いか、とは訊《き》かない。そんな卑怯《ひきょう》な言葉は、彼は言わない。そしてだからこそ秀麗も嫌いじゃないという逃げは許されなかった。 「……好きよ。でも、多分、あなたが向けてくれるものとは違う」 「それで、充分だ」 「……え?」 「——もう一度言う。余は、そなた以外、誰も妃に迎《むか》えない。一年、ずっと一人だった。それが繰り返されるだけの話だ。それでも、余は寂《さび》しい」  ふいに抱《だ》きしめられる。力強い——それは大人の男のものだった。 「ただ、一つ、望むことがある。公の場では、仕方がないけれど、それ以外で、私を拒絶《きょぜつ》しないでほしい。跪《ひざまず》かないでほしい。王ではなく、私を見てほしい。——でなければ、私は、悲しくて寂しくて、眠《ねむ》ることさえできなくなる」  余という一人称《いちにんしょう》ではなく、あえて私といった意味を、秀麗は正確に理解した。 「想いを返してくれなどとは言わない。でも、王であることを楯《たて》に逃げることだけはやめてほしい。そなたが見つけて、王にしたのに、今さら逃げるのは卑怯だ」  かすれたような声音に、秀麗は息を呑《の》む。  ——そうかもしれないと、思った。官吏になれば、距離《きょり》がとれると思わなかったと言えば嘘《うそ》になる。あまりにもまっすぐに向けられる想いが、どういう種類のものなのか、わからなかったからなおさら。  それでも、今ならわかる。 「——あなたはいつも頓珍漢《とんちんかん》なことしてたわ」 「余はいつも本気だった」  逃げたいと、秀麗は思っていた。逃げなければ、……捕《つか》まるかもしれないと思った。そして彼は、いつだって逃げ道を用意してくれた。  そう、いつだって、秀麗が逃げたいと思った時は、退いてくれた。だから秀麗は今まで何も考えずに過ごすことができたのだ。  ——でも、だめだ。今日ばかりは。 「忘れないでくれ。余は、そなたさえいればいい」  劉輝の声は優《やさ》しかった。それは目眩《めまい》がするほどの心地よさ。 「……あなたに愛される人は、きっと幸せね」  秀麗はポツリと呟《つぶや》いた。 「その幸せは、他の人にあげてちょうだい。私はあなたの奥さんになるために、国試を受けたんじゃないわ。あなたの下で、あなたを支えるためにきたのよ」 「頑固《がんこ》だな。でもいいんだ。余も頑固だからな」  劉輝は笑った。怒《おこ》ってくれたらいいのに——と秀麗は思う。 「そなたが向こうで余以外の誰かを好きになったら、結婚《けっこん》する前に必ず連絡《れんらく》するのだぞ」 「……なんでよ」 「飛んでいって決闘《けっとう》して、どっちがいい男かそなたに再認識《さいにんしき》させて破談にするのだ」  ふと、劉輝の脳裏に一人の青年の姿が浮《う》かんだ。秀麗と同じくらい大切な——最愛の兄。  ただ一人。もし秀麗が選んだ相手が、あの人だったら。  劉輝はそっと目を閉じた。そうしたら——……。 「……約束するわ。連絡するわよ」  秀麗は苦笑した。  まっすぐに、自分を好きだと言ってくれる人。それはとても嬉《うれ》しい。けれどその言葉だけが、今の秀麗が返せる精一杯《せいいっぱい》の誠意だった。そしてもう一つ。 「あなたに、跪いたりしないわ。王っていう肩書《かたが》きで、あなたを見たりしない。——私も逆のことやられて落ち込んでたもの」  そしてこの青年には、今のところ本当の意味で対等なのは自分しかいないのだ。  劉輝は甘えるように秀麗を抱きしめた。  それは、とても居心地の良い場所だった。 「あなたは、いい王様になるわ。まあ、いい男にもなるんじゃないかしら」  劉輝は秀麗の顎《あご》をそっと上向かせた。秀麗はそう何度も同じ手にかかるかと押しのけようとしたが、劉輝は離《はな》さなかった。  ——今度の口づけは、今までのように触《ふ》れるだけの優しいものではなかった。  長い時がたって解放されたとき、秀麗は立っているのが精一杯だった。 「これで、余のことを忘れないだろう」 「……あ、あんたねぇ」 「忘れないでくれ。——余がそなたを愛していることを」  ——それは、香鈴の、茶|太保《たいほ》に対する想い以上に。      ***  出立の日、入ってきた年若き新州牧たちに、その場の誰もがざわめいた。 「……これは」 「なんと、見事な」  最上級の官服に身を包んだ二人に、感嘆《かんたん》の溜息《ためいき》が漏《も》れる。  特にそれは、秀麗に対して向けられた。  彼女の官服の形は、従来のものとそう異なっているわけではない。けれど男装の少女とは見えなかった。女性が着やすいように手を加えられた官服は、すでに女性のためのものだった。本当にささやかな変化なのに、驚《おどろ》くほど優しい印象になっていた。何一つ宝飾《ほうしょく》はつけていないその様子も華《はな》やかでいて凜《りん》としていた。官吏《かんり》がもつすべての小物も、女性仕様に小づくりでやわらかくなっているのが新鮮《しんせん》だった。  女と男は、これほどまでに違《ちが》うと、誰もが目から鱗《うろこ》が落ちる思いを味わった。  紅進士の沓《くつ》は皮でなく、やわらかい布製だった。女人の痛みやすい足には、それが履きやすいのだろう。けれど自分たちはそんなこと思いもしなかった。彼らは気づいた。今まで男の目で政事《まつりごと》をしてきた。それは、女人にとってはむりやり皮製の靴《くつ》を履かせられるように、多くの理不尽《りふじん》なものがあったのかもしれないと。  そしてこの野の花のような少女は、見事に官服を変えたように色々なものを変えていくのかもしれない。改革ではなく、静かに、少しずつ、今まで歪《ゆが》んでいたところをそっと直していくように。誰にも優しい場所となるように。男である身にはわからないところを。  一瞬《いっしゅん》で、女官吏の存在を朝廷《ちょうてい》という場にとけこませた。まるで違う女と男をはっきり区別するような官服を着ていたら、反発は必至だったろう。けれど彼女は男だけの世界を認めた上で、それに女性を合わせてきた。どちらの良いところもとり、ごく自然に立っている。  誰もが、彼女の未来を見た気がした。  彼女の�花�は咲《さ》くだろう。賜《たまわ》った蕾《つぼみ》は、必ず花ひらく——と。 「——そなたらに、心からの祝福を」  劉輝は静かに告げた。 「浪燕青、鄭悠舜とともに、どうか彼らをうまく導くよう」 「御意《ぎょい》」 「※《し》[#「くさかんむり/此」]静蘭、わずかの瑕瑾《かきん》も、彼らに及《およ》ばぬよう」 「玉賜の剣《けん》にかけて、必ず」 「杜影月、何ものにも縛《しば》られておらぬ真新《まさら》なそなたに期待している。十三歳状元|及第《きゅうだい》したその才を、あますことなく生かすよう」 「できる限りのことをいたします」 「紅秀麗、——女人として、官吏として、そなたが思うことを存分に為《な》せ」  すべてを託《たく》すという言葉に、秀麗は頭を垂れた。それは絶大なる信頼《しんらい》。 「この身の及ぶ限り」  劉輝はひとつ頷《うなず》くと立ちあがった。 「そなたらに与《あた》えた蕾が、ひらくときを心待ちにしている。  ——今日これより、そなたらは国の御柱《みはしら》となる」  打たれたように、誰《だれ》もが頭を垂れた。  上治三年——のちに多くの史書にて『最上治』と称《たた》えられる劉輝治世の、これが本当にはじまりだった。  このとき紅秀麗が考えた官服は、のちに女性官吏の常用型となる。  また、『王の双花菖蒲《そうかしょうぶ》』とあだ名された李絳攸と藍楸瑛のごとく、以後、文武ともに並はずれた能力をもつ※《し》[#「くさかんむり/此」]静蘭と浪燕青をその両手におさめることになる彼女は、やがて『紅花、双玉を有す』と称《しょう》されるようになる。大官さえ一目置くこの二人の青年が、出世も望まずそばに仕えたのは、真の意味で紅秀麗ただ一人であったという。      ***  高楼《こうろう》の天辺で、霄太師は宋《そう》太|傅《ふ》とともに月を肴《さかな》に盃《さかずき》を傾《かたむ》けていた。 「霄、この梅干し壺《つぼ》、あけていいか」 「駄目《だめ》じゃ」 「——霄。あのニセ指輪、お前がつくって蔡|尚書《しょうしょ》のところへ放りこんだんだろう」 「当たりじゃ」  あっけらかんと笑った霄太師に、宋太傅は呆《あき》れかえった。  蔡尚書が最初に「見つけ」、そして破落戸《ごろつき》たちから影月が奪《うば》い、玖琅の手に渡《わた》った指輪。  それもまた贋物《にせもの》ではあったが、蔡尚書がせっせとつくらせていたいくつもの贋物とは違い、燕青をはじめ目の肥えた大貴族たちが残らず感嘆したほど精巧《せいこう》すぎる出来映《できば》えの茶家当主指輪の贋物。そんなものをつくれるのは限られている。何十年もその指輪を間近で見てきたようなものでなくば、複製不可能といわれるあの指輪をあそこまで精巧にはつくれない。  宋太傅はちらりと�あけてはいけない�梅干し壺に目をやった。——あやしい。 「——あッ、あんなところに縹英姫がっっっ」 「ななな何ぃっっ!?」 「どりゃーっ!」  本気で血相を変えた霄太師の隙《すき》をついて、宋太傅は梅干し壺を奪い取った。そして問答無用でふたを開ける。そこから転がりでたのは、今度こそ「本物」——まぎれもなく茶家当主を示す指輪だった。 「宋! お、お前|騙《だま》すにしてもあまりにも心腑《しんぷ》に悪いじゃろうがっ」 「英姫くらいでなけりゃお前の気なんざ逸《そ》らせるか。つかお前この指輪、何に使った?」  ズバリ核心《かくしん》をついてきた同僚《どうりょう》に、霄太師はうっと身をひいた。 「ベ、別に。ただ面白そうだからもってただけでじゃな」 「嘘《うそ》つけ。お前が何の理由もなくこんなもん一年ももってるわけあるか。しかも梅干し壺……ははあ、さてはこの楼《ろう》に出るあの幽霊《ゆうれい》と何か関係があるな」  まさにその言葉を裏づけるように、不意に指輪の輪郭《りんかく》がぼやけた。ゆらり、と二十代後半とおぼしき青年の姿が、陽炎《かげろう》のように浮《う》き上がる。  宋太傅は二度目に目にする若かりし頃《ころ》の友の姿を、まじまじと見た。 「鴛洵、お前なんでそんなに若くなったんだ? 幽霊だと若くなるのか?」  青年の形をとった茶鴛洵はこめかみに手をやった。 「……宋、お前は他に言うことがないのか? 驚くとか、怖がるとか」  直接脳裏に響《ひび》くような声に、宋太傅は珍《めずら》しい経験とでもいうように眉《まゆ》を上げた。 「いや、実際いるしな。お前、昔と変わらんし」  霄太師はげらげらと笑った。 「おぬしは本当に貴重じゃのう。しかも動物的本能でスバズバ見抜《みぬ》く。恐《おそ》れ入ったわい」 「誰が動物だこの腐《くさ》れじじい! ずっと隠《かく》しておきおって」  途端《とたん》に年甲斐もなくののしり合いをはじめた二人を、鴛洵は冷ややかに一刀両断した。 「——黙《だま》れ」  ぴたり、と口喧嘩がやむ。——そういえば昔は皮肉でなく直接ずばっときたものだった。 「……懐《なつ》かしいな」 「いいのうこの感じ」  鴛洵は憤然《ふんぜん》とその幻影を揺《ゆ》らめかせた。 「霄……お前というやつは」 「ふふん、わしがお前のもくろみ通り動くと思ったか?」 「……国が定まったのちは、茶一族《あやつら》は害毒にしかならん。この馬鹿《ばか》め、せっかくつくってやった好機を……!」  吐き捨てるような言葉が、一年前の策謀《さくぼう》の本意を垣間《かいま》見せた。  茶家当主である自分がつかまること。自らの死を前提に、きっかけ[#「きっかけ」に傍点]を。 「お前はまったく若者に甘いのう、鴛洵。何もかもお膳立《ぜんだ》てしてやることはない。お前が罪をひっかぶって死んでやるほどの価値もないぞ」  宋太傅も酒をあおりながら頷いた。 「まあ、確かにな。いくらお前が国を思いすぎる男だとはいえ、ちょっとやりすぎだろう。茶一族をなんとかするのは、新王たちの役目だろが。——お前がなんにもいわずに勝手に決めて死んだ時は、……結構キツかったんだぞ」  ポツリと呟《つぶや》かれた言葉に、鴛洵も口をつぐむ。霄太師もそっぽを向いた。 「そうじゃそうじゃ。手前勝手に死んだヤツの言うことなんぞ聞くつもりはさらさらない。この指輪を一年隠してただけでもありがたいと思え」 「——隠してただけならな! 私の——この姿はなんだ!」 「有効活用しただけじゃ。この指輪《うつわ》がいちばんお前の魂《たましい》を留《とど》めておきやすかったのでな」  長い年月、鴛洵と——その高潔な魂とともにあった指輪。何一つ未練なく逝《い》ったこの男を引きずり戻《もど》すには、これくらいの道具立てが必要だった。 「魂留《たまとど》めはかなり繊細《せんさい》で難しいのじゃぞ。夏にはさんざんバテ官吏どもの邪魔《じゃま》が入ったし。まったくわしの術と熱意のタマモノなのじゃ。毎晩この高楼で月の光に当てたりとかして」 「——何のためにだ、霄?」  霄太師は不思議な笑《え》みを浮かべた。だが問いには答えなかった。 「……あのニセ指輪は、わしからの贈《おく》り物じゃ。初めて人事に着手する新王が最後に残った雑魚《ざこ》をなるべく簡単に片づけられるようにのう」  礼部はそれほど重要な部署ではない。消す必要もないほどの小物、けれどいずれ勝手に動いて嵐の目になるであろう者。それが蔡尚書だった。霄太師はそれをとうに見越していた。でなければ数年前、あの男を尚書に据《す》えるわけもない。 「……霄、お前、この国が好きか?」  鴛洵の静かな問いに、霄太師はうすく笑う。 「死ぬほど、嫌《きら》いじゃ」  言い捨てて、彼は盃を傾けた。 「次は、茶州——か」 [#改ページ]  あとがき  皆様《みなさま》、お元気でいらっしゃいますでしょうか? 雪乃紗衣です。 「はじまり」と「黄金」の月間をはかって、次は7月だろ、と予測していた方には(←私は良くやります)、……えー、言葉もございません……。  ……この巻は、前巻以上に私事で色々あり、ものすごくご迷惑《めいわく》をかけてしまいました。今回ばっかりは担当様に支えてくれてありがとうなんて厚顔《こうがん》はいえません。本当に申し訳ありませんでしたとひたすら頭を下げるばかりです。本当にごめんなさい……。  ——さて、今回ちょっとかっこいい副題がついてますが、私としては「恐怖《きょうふ》! 紅一族の襲来《しゅうらい》」の方がより適切なんではなかろうかと思ってます。ええ。今回の陰《かげ》の主役は間違《まちが》いなく絳攸|及《およ》び紅一族。特にオジサマたち本性…でなく本領発揮。王様も真っ青です。書きながら「|〆切《しめきり》がぁああ!」と私も真っ青でしたが。  そして今回はまた少し王様の印象が違うのではないでしょうか。前回ではある意味「はじまり」よりもバカ殿《との》だった劉輝ですが、今回の印象も皆様に聞いてみたいものです。絳攸の名の意味も明らかになり、なんでこいつはこんなに小難しく読みづらいのかという皆様のお怒《いか》りも少しはやわらいでくれた…くれると嬉《うれ》しいです(汗)。  そして新たな展開とともに増えた某《ぼう》少年(またかよ)、火星人より怖《こわ》い紅一族の襲来のせいで影薄《かげうす》めですが、今回|他《ほか》が濃《こ》いんでこんくらいで。次巻からは王都組の出番は少なくなる……のかな。人数という点では、冒頭《ぼうとう》及び雑誌からもトンズラこいた某弟は作者に優《やさ》しい人です。そして本編のじじ度の高さは絶対じーちゃんズの呪《のろ》いです。いや、ほんと、こんなに人数多くてじじ度高い話は生まれて初めてです。ましてじーちゃんズが主役をかっさらう勢いの話だなんて……! 違うんです信じてください。私だって若い方がいいです(ナニが)。  時は巡《めぐ》り、少しずつ変化が訪《おとず》れます。次の舞台《ぶたい》は茶州《さしゅう》です。……恐《おそ》ろしいことにかなり早くお目見えできるのではないかと思います。……今回以上に大○製薬さんのお世話になりそうです。もうマブダチの勢いです。皆様よろしければ愛のお手紙を……。  あ、今巻から人物|紹介《しょうかい》が入るとか! なぜ今まで入らなかったかというと、……私がそのぶんのペーシを本編に使っちまってたからです……。  由羅《ゆら》カイリ先生には、や、もう本当になんて言ったらよいか。これからもよろしくお願いします! 押忍《おす》!! 今回表紙の絳攸、めちゃめちゃカッコ良かったです!  今年は暑い夏になりそうですね。皆様、時間と健康をくれぐれも大切に(←実感こもり)お過ごしくださいませ。 [#地から2字上げ]雪乃 紗衣 [#改ページ]